5~6世紀のヤマト政権は、各地の有力者を政府内に組み込むため氏姓制度を整えはじめました。
なぜなら地方豪族に臣・連・君といった姓与えて、中央政府及び地方政治を取り仕切らせるためです。
なかでも力をもって台頭してきたのが蘇我氏である。蘇我稲目は大臣の位に立つとメキメキと力を発揮していったのです。
氏姓制度
氏姓制度って今の苗字みたいなもの?
氏に当たるのはそうなんだけど、「姓」は違うんだよー。
今の言葉で言うなら「称号」かなぁ。「~将軍」とか「~参謀」とかだよ~
勝手に名乗っちゃえばいいじゃん!
そんなことしたら、ド田舎の何もないところの人までなんとか将軍になっちゃうでしょ。
ちゃんと、「姓」を与えるのは大王(天皇)って決まってるのよ。
姓制度のしくみ
大王…豪族に姓(称号)を与える
姓(臣(おみ)・連(むらじ))
大臣…大王家と並ぶ有力豪族(蘇我大臣・巨勢臣・葛城臣など)
大連 …特定の職掌で朝廷に仕える有力豪族(物部大連・大伴連など)
中央の姓(君(きみ)・直(あたい)・首(おびと))
伴造…軍事・財政を担当。この中には渡来人もおり主に外交文書を作成したりしていた。
伴…豪族の構成員の官人たち。
品部…職人たち(例えば錦織部・史部など)
地方の姓(君・直・首)
国造…ヤマト政権の直轄地の屯倉を管理することを任された地方豪族。地方の支配権を持っていた。
名代・子代…兵役や生産物の献納をする。
田部…屯倉の耕作をする。
部曲…豪族の私有民で田荘を耕作する。
屯倉とは?
天皇直轄地の経営倉庫と土地をさし、そこでとれる作物特産品を課税した。大化の改新の時に廃止。
蘇我氏の進撃!
氏姓制度が整ってくると、蘇我稲目が大臣になった、力をメキメキと付けた稲目は2人の娘(小姉君・堅塩媛)を欽明天皇に嫁がせ、外戚となりますます権勢を欲しいままにしました。
稲目の息子馬子もまた、天皇の外戚になり軍事担当で大王家に仕えていた物部氏を倒し政治の実権を握りました。
馬子は自ら擁立した崇峻天皇でさえ言うことを聞かないという理由だけで殺害するという権勢を振るったのでした。
厩戸王の政治
崇峻天皇亡き後、馬子は崇峻天皇の姉を推古天皇とし、娘婿の厩戸王を摂政として共に政治を運営していきました。
どんな政治をしていったんだろう?
だって言うことを聞かないだけで亡き者にされちゃうんでしょ~。
それはね、氏姓制度みたいに一族に姓を与えるわけじゃなくてー、
優秀な個人に位を与える「冠位十二階」を制定したの。
んじゃ僕もがんばったらもらえるのかなぁ~
冠位十二階
厩戸王が考えたと従来はされていたが、最近の研究では馬子と共同でこのシステムを考えたのではないかということが有力視されてます。
何故なら、馬子ら蘇我氏には冠位を示す冠を賜ったという記述がなく、当然、厩戸王は王族なので「授ける側」でありやはり冠はかぶっていなかったという事だからです。
蘇我蝦夷が息子入鹿に勝手に誰の相談もなしに、冠位十二階の一番上の冠(紫冠)を授けたことにより権勢をほしいままにしたこと。
でも、与える側の蘇我蝦夷が入鹿に授けたって事は?入鹿って誰の子?ってことになるのですが、これはまた別のお話という事で・・・(笑)
冠位の色について
- 冠は位によって異なる色が定められていたが、「日本書紀」などの諸史料には何が何色に対応していたかは定められていない。
- 五行五色説が有力な説として推定されているが、どれも確証がない。
- 五行説の難点は義の白色にあります。白色は古代日本では位の一番高い色であり、のちの「大宝令(701年)」では天皇だけの衣の色と定められているので、位の低い「義」ではつじつまが合わなくなります。
まとめ
氏姓制度を制定して中央・地方の政治をスムーズに、かつモチベーションアップにつなげた。
氏姓制度により、その人物の職業などもわかって大変便利(史料を読むにもこの制度によりこの一族は何職がわかります)
蘇我氏の台頭。自分の娘を天皇に嫁がせて外戚となることによって力をつけていき政治を仕切るようになる、厩戸王の妃も馬子の娘である。
冠位十二階は実力によりいただける冠位なので、実力さえあれば上位を目指すことはできる。
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