大化の改新(645年) 厩戸皇子(聖徳太子)が亡くなってからの蘇我氏は専横が激しくなり、厩戸皇子の子(山背大兄王)を自害に追いやった。
やりたい放題の蘇我入鹿に対し、若き中大兄皇子と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)は話し合い「蘇我入鹿殺害」を企てる。入鹿が皇極天皇へ奏上する殿中において殺害し、翌日には孝徳天皇を即位させて「大化の改新」と言う政治改革を進めて行った。
孝徳天皇は、翌年646年には「大化の詔」を発する。
クーデターから始まった中央集権国家
クーデターを起こした中大兄皇子と中臣鎌足らによる蘇我入鹿殺害事件(乙巳の変)後からの政治形態です。
そもそもクーデターを起こしたのはなんで?
蘇我氏が厩戸の息子である山背大兄王を殺害したことにより中大兄皇子が危機感を抱いたからだよ。
厩戸(聖徳太子)が亡くなると蘇我馬子の跡を継いだ蘇我蝦夷は権勢を振るい、息子である入鹿を誰にも相談せずに勝手に大臣に就かせ専横が激しくなってきた、中央の天皇家をないがしろにし始め、厩戸(聖徳太子)の子である山背大兄王まで邪魔ものとして殺害した。
(実際には山背たちは、斑鳩寺に戻り一族で自害しました。入鹿が殺したのも同然なので、厩戸と仲が良かった父蝦夷は激怒したそうです)
しかし、
この争いは自分(蘇我氏)たちが政治を自由にするための天皇擁立にことを発するため、山背は勝てる戦いだとしても民百姓らを犠牲にするくらいなら、自ら自害しようと争いを好まなかったのではないか、というのが通説です。
蘇我蝦夷はコントロール自由な古人大兄皇子を次期天皇に擁立したかった
人望ある山背大兄皇子を蘇我蝦夷が嫌った
やりたい放題の蘇我氏に危機感を感じた中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターを起こしたのである。皇極天皇に謁見に訪れた蘇我入鹿を天皇の前で暗殺したという前代未聞の出来事となりました。
暗殺したことを大化の改新ていうの?
いや~「大化の改新」は政治の改革であって暗殺事件は「乙巳の変(いっしのへん)」って言うんだよ。
なら「大化の改新」てなに?
乙巳の変ののち、すぐさま中大兄皇子が採った行動は皇極天皇から孝徳天皇を即位させたのち、新しい法を整備したことが「大化の改新」という事になります。
大化の改新のポイントは4つ
- 公地公民制
- 班田収授法
- 租庸調の税
- 地方行政制度
公地公民
公地公民制ってなに?。
「すべての土地、人民は国のものであり、個人・豪族のものではないですよ。」って事だよ。
んじゃ、誰のもの?
国(天皇)のものだね。
班田収授法
また、変な言葉出て来たよ~(泣)なんか凄い技なのー?
班田収授法だね。技では無くて公地公民制で天皇以下国民は土地を持てなくなったでしょ?それをね、天皇が皆に貸すことにしたの。
貸してくれた土地に家や田んぼや畑作ったという事?借り賃とかあるんかなぁ?
租庸調の税
また変なのが出て来たぞ~。租ってなに?
お米の事だねぇ~。
それじゃ次の庸は?
庸はもともと、都に上がって労役をすることを指していたんだけど、労役出来る男子が居ない家などや、「働かされるのは嫌じゃ」な人はそれに代わる物を収めていたんだよね~。それが庸だよー
何を納めてたんだろ?
あー、やっと最後に来たー。調はなにか調べるのかなぁ?
税なので調べものじゃないわよ(;^_^A
地方行政制度
これは今の行政とおなじことかなぁ?
そだね。昔も今と変りなく地方の道路や土手などは中央政府じゃなくて地方の管轄だったみたいね。だからこそ、特産品として色々なものが出現したって事ね。
重要人物
まとめ
- 乙巳の変で中大兄皇子と中臣鎌足に蘇我入鹿が殺害される
- 翌年646年に孝徳天皇により「大化の詔」
- ポイントは4つ。「公地公民制」「班田収授法」「租庸調の税」「地方行政制度」
この時代の思い入れは相当なものがあって、大化の改新だけでは収まり切れないくらいです。中大兄皇子の弟と言われている大海人皇子は出ていませんし、この二人の男に愛された額田王もでてきません。
一説には大海人皇子は中大兄皇子と兄弟ではないと言う説が最近では有力な情報として報じられていたと思います。この二人の男をめぐる額田王の物語をぜひ知りたい方は私にコメントいただけたらとおもいます(笑)
コメント