【人名】
中臣鎌足/藤原鎌足
(ふじわらのかまたり/なかとみのかまたり)
飛鳥時代の政治家。 孝徳、斉明、天智天皇に仕えた。
日本の歴史における最大氏族「藤原氏」の始祖。中国の史書『六韜』を暗記し、隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされたという。
大化の改新の中心人物であり、改新後も中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。字は仲郎。
名 前
神号:談山権現、談山大明神
生没年
没 年:669年11月14日
親 族
母 :大伴智仙娘(大伴連噛の娘)
:車持与志古娘(上毛国造車持氏、孝徳天皇の采女説)
:藤原不比等・史(母:車持与志古娘(尊卑分脈)or鏡王女(興福寺縁起)、天智天皇の落胤説あり)
:氷上娘・氷上大刀自(母:不明、天武天皇夫人)
:五百重娘・大原大刀自(母:不明、天武天皇夫人のち不比等の妻)
:耳面刀自(母:不明、弘文天皇妃)
:斗売娘(母:不明)
:中臣垂目
略 歴
614年 父は中臣御食子(神祇伯)、母は大伴智仙娘の子。
出生地は諸説あり。
大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)【藤氏家伝】
大和国大原(奈良県明日香村)【大鏡】
常陸国鹿島(茨城県鹿嶋市)【大鏡】
早くから中国の史書に関心を持ち、『六韜』を暗記した。
隋・唐に遣唐使として留学していた南淵請安が塾を開くとそこで儒教を学び、蘇我入鹿とともに秀才とされた。
644年 神祇伯に任命されるが、固辞して就任せず病を称して摂津国三島の別邸に住んだ。
以前から親しかった軽皇子(孝徳天皇)に接近。
軽皇子は足の病で朝廷に出なかった。鎌足は軽皇子の宮に泊まった際には、軽皇子は、妃の阿倍小足媛に命じて、別殿を清掃し新品の寝床をあつらえて等、特別にもてなした。
鎌足も恩に感謝し、天下に王となることを妨げるものは誰もいないと伝えている。
また、軽皇子の妃に、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘もいたので、乙巳の変では石川麻呂も仲間に引き入れている。
つぎに中大兄皇子(天智天皇)に接近。
たまたま皇子が法興寺の 槻の木の下で蹴鞠をしていた仲間に加わった。
革靴が蹴り上げた鞠と一緒に脱げ落ちたので、拾って手の平に置いて跪き恭しく奉った。
中大兄も対して跪き恭しく受け取った。
ここから親交を深めて、共に胸の内を語り合って隠す所が無かった。
後に、他の人が頻繁な接触を疑うことを恐れ、共に書物を持って南淵先生の所で儒教を学んだ。往復の路上で肩を並べて密かに図った。一致しない事は無かった。
鎌足は「大事を謀るには、助けが有るに越したことはございません。どうか蘇我倉山田麻呂の長女を召して妃とし、婿舅の関係を築きなさいませ。然る後に説得して計画を実行するのです。成功の道にこれより近いものはございません」と。
皇子はこれを聞いて大喜びして計画に従った。
鎌足も自ら出向いて仲立ちした。
しかし長女は約束した夜に族に盗まれた。
これにより倉山田臣は憂え恐れて為す術が無かった。
少女は憂える父を怪しんで「何を憂え悔いているのですか」と尋ねた。
父はその理由を話した。
少女が言うには「どうか心配しないで下さい。私を差し上げても遅くはないでしょう」と。
父は大喜びしてその娘を奉った。真心を尽くして非の打ち所が無かった。
中臣鎌子連は佐伯連子麻呂・葛城稚犬養連網田を中大兄に勧めて云々と述べた。
645年 中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。
この功績から、内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。
(内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。唐や新羅からの外交使節の対応にもあたっており、外交責任者でもあったとみられる)
その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂と対立した。
647年 新冠位制度では大錦冠を授与。
649年 倉梯麻呂・石川麻呂が薨去・失脚したあと勢力を伸ばした。
654年 大臣の位である紫冠を授かる。さらに大紫冠に昇格した。
664年 百済の鎮将劉仁願の使者郭務悰のもとに沙門智祥を派遣し物を賜った。
669年10月 山科の御猟場に狩りに行き、馬上から転落して背中を強打した。
天智天皇が見舞うと「生きては軍国に務無し」と語った。
(白村江の戦いにおける軍事的・外交的敗北の責任を痛感しての言葉)
大織冠内大臣の位と藤原朝臣の姓を賜り、翌日に逝去した。享年56。
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