【人名】阿部仲麻呂

月岡芳年『月百姿』皇帝・玄宗に仕えた阿部仲麻呂(右)帰国の折に王維(左)と月を見ながら別れを惜む。
「天の原振りさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも」

絵:『月百姿』月岡芳年

【人名】
阿部 仲麻呂(あべ の なかまろ)

奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。筑紫大宰帥・阿倍 比羅夫あべのひらふの孫。中務大輔・阿倍 船守あべのふなもりの長男。

唐名を朝衡ちょうこう(晁衡)。唐で国家の試験に合格し唐朝において諸官を歴任して高官に登った。日本への帰国を果たせずに唐で客死した。小倉百人一首では阿倍 仲麿と表記される。

名 前

別称:朝衡ちょうこう(晁衡)、阿倍 仲麿

生没年

生 年:690年(文武天皇2年)
没 年:770年(宝亀元年1月)

親 族

父  :阿部 船守
母  :不明

配偶者:不明

子  :不明

兄弟姉妹:阿倍 帯麻呂

略 歴

698年(文武天皇2年)阿倍船守の長男として大和国に生まれ、若くして学才を謳われた。

717年(霊亀3年・養老元年)多治比 県守たじひのあがたもりが率いる第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。同次の留学生には吉備 真備きびのまきび玄昉げんぽうがいた。

唐の太学で学び科挙に合格し、唐の皇帝・玄宗に仕える。

725年(神亀2年)洛陽の司経局校書として任官

728年(神亀5年)左拾遺

731年(天平3年)左補闕と官職を重ねた。
仲麻呂は唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めたことから李 白・王 維・儲 光羲ら数多くの唐詩人と親交していたらしく、『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。

733年(天平5年)多治比 広成が率いる第10次遣唐使が来唐したが、さらに唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。この時帰国した真備と玄昉は第1船に乗っており助かっている。副使・中臣 名代が乗船していた第2船は福建方面に漂着し、一行は長安に戻った。名代一行を何とか帰国させると今度は崑崙国(チャンパ王国)に漂着して捕らえられ、中国に脱出してきた遣唐使判官・平群 広成一行4人が長安に戻ってきた。広成らは仲麻呂の奔走で渤海経由で日本に帰国することができた。

734年(天平5年)儀王友に昇進。

752年(天平勝宝4年)衛尉少卿に昇進する。この年、藤原清河率いる第12次遣唐使一行が来唐する。すでに在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。この時王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。

秘書晁監の日本国に還るを送る
積水せきすい 極きわむべからず、安いずくんぞ 滄海そうかいの東を知らん。
九州 何いずれの処か遠き、万里 空に乗ずるが若ごとし。
国 に向い惟ただ日を看、帰帆 但ただ風に信まかす。
鰲身ごうしん天に映じて黒く、魚眼波を射て紅くれないなり。
郷樹 扶桑ふそうの外ほか、主人 孤島ことうの中うち。
別離 方まさに域いきを異ことにす、音信いんしん若為いかんぞ通ぜん。

大海原は見極めようもなく広いのに、海の東がどうして知れるだろうか。
この世界で最も遠いのだから、万里の道は、空を旅してるようなもの。
国に向かうには東に登る日をみて、帰路はただ風向きに任すしかない。
伝説の大海亀は背は黒々と映え、怪魚の眼光は赤く波を射ることだろう。
故郷の神木は、扶桑の向こうにあり、あなたの主君はその孤島にいる。
この別離で遥かな異郷に別れてしまう、便りをどのようにして届けようか。

しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだ。実際には仲麻呂は死んでおらず船は以前平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートをたどり、幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。

755年(天平勝宝7年)仲麻呂一行は長安に帰着している。この年、安史の乱が起こったことから、清河の身を案じた日本の朝廷から渤海経由で迎えが到来するものの、唐朝は行路が危険である事を理由に清河らの帰国を認めなかった。仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就く。

760年(天平宝字4年)左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)として再びベトナムに赴き総督を務めた。

761年(天平宝字5年)から767年(神護景雲元年)まで6年間もハノイの安南都護府に在任し、766年(天平神護2年)安南節度使を授けられた。最後は潞州大都督(従二品)を贈られている。

結局、日本への帰国は叶えられることなく、宝亀元年(770年)1月に73歳の生涯を閉じた。

なお、『続日本紀』に「わが朝の学生にして名を唐国にあげる者は、吉備真備と朝衡の二人のみ」と賞されている。また死去した後、彼の家族が貧しく葬儀を十分に行えなかったため日本国から遺族に絹と綿が贈られたという記述が残っている。

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