【人名】天智天皇/中大兄皇子

乙巳の変
絵:乙巳の変で、蘇我入鹿に斬りかかる中大兄皇子。大日本名将鑑より(トリミング) 出典:Wikipedia

【人名】
天智天皇/中大兄皇子
(てんぢてんのう/なかのおおえのおうじ・みこ)

第38代天皇(在位:668年2月20日~672年1月7日)

中大兄皇子なかのおおえのおうじとして知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた大王位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「2番目の大兄」を意味する語。

中臣鎌足らと蘇我氏を討ち、大化の改新を行った。
孝徳、斉明朝で皇太子となり、政治の実権を握った。
天皇中心の中央集権の強化を図り新しい制度を取り入れた。
白村江の戦いでは、唐・新羅連合軍に大敗し、守りを固めたという。

蘇我の血をひく兄・古人大兄皇子を討伐。蘇我倉山田石川麻呂や孝徳天皇の子・有間皇子を謀反の罪にて処刑するなどした。

名 前

漢風諡号:天智天皇
和風諡号:天命開別天皇
諱 :葛城
別称:中大兄皇子

生没年

生 年:614年
没 年:669年11月14日

親 族

父  :舒明天皇じょめいてんのう
母  :皇極天皇こうぎょくてんのう
配偶者:倭姫王やまとのひめのおおきみ(皇后、古人大兄皇子の娘)
   :蘇我遠智娘そがのおちのいらつめ(嬪、蘇我倉山田石川麻呂の娘)
   :蘇我姪娘そがのめいのいらつめ(嬪、蘇我倉山田石川麻呂の娘)
   :蘇我常陸娘ひたちのいらつめ(嬪、蘇我赤兄の娘)
   :阿倍橘娘あべのたちばなのいらつめ(嬪、阿倍倉梯麻呂・内麻呂の娘)
   :道伊羅都売みちのいらつめ(采女、越の道氏の娘)
   :伊賀宅子娘いがのやかこのいらつめ(采女、伊賀造伊賀臣の娘)
   :忍海造色夫古娘おしぬみのしこぶこのいらつめ(采女、忍海造小竜の娘)
   :栗隈首黒媛娘くるくまのくろひめのいらつめ(采女、栗隈首徳万の娘)
第一皇女:大田皇女おおたのひめみこ(母:遠智娘、天武天皇妃 、大津皇子・大来皇女母)
第二皇女:鸕野讃良皇女うのさららのひめみこ(母:遠智娘、持統天皇、 天武天皇后、草壁皇子母)
第二皇子:建皇子たけるのみこ(母:遠智娘、夭逝)

第三皇女:御名部皇女みなべのひめみこ(母:姪娘、高市皇子妃、長屋王母)
第四皇女:阿閇皇女あへのひめみこ(母:姪娘、元明天皇、草壁皇子妃、文武天皇・元正天皇・吉備内親王母)

皇女:山辺皇女やまべのひめみこ(母:常陸娘、大津皇子妃)

皇女:明日香皇女あすかのひめみこ(母:阿倍橘娘
皇女:新田部皇女にいたべのひめみこ(母:阿倍橘娘、天武天皇妃、舎人親王母)

第七皇子:志貴皇子しきのみこ(母:道伊羅都売、春日宮御宇天皇追尊、後に親王、 光仁天皇父)

第一皇子:大友皇子おおとものみこ(母:伊賀宅子娘、弘文天皇)
第三皇子:川島皇子かわしまのみこ(母:伊賀宅子娘、淡海朝臣・春原朝臣祖)

皇女:大江皇女おおえのひめみこ(母:忍海造色夫古娘、天武天皇妃、長皇子・弓削皇子母)
皇女:泉皇女いずみのひめみこ(母:忍海造色夫古娘、内親王、伊勢斎宮)

皇女:水主皇女みぬしのひめみこ(母:栗隈首黒媛娘、内親王)

兄弟姉妹:古人大兄皇子ふるひとのおおえのみこ
    :間人皇女ふりがな(皇極・斉明天皇)
    :大海人皇子おおあまのみこ(天武天皇)
    :蚊屋皇子かやのみこ

略 歴

626年 父は舒明天皇、母は皇極天皇。第二皇子として誕生。
645年7月10日 中大兄皇子は中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。
更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。
646年 改新の詔(以下4か条の主文)

1、天皇の直属民や直轄地、豪族の私地や私民を廃止し公のものとする(公地公民制)

2、首都(畿内)、くにあがたこおりなどを整理(変化は数年後)

3、戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(班田収授の法)

4、公民に税や労役を負担させる制度の改革。(租・庸・調)

649年3月 蘇我日向の密告を受け、蘇我倉山田石川麻呂を謀反の疑いにて自害に追い込む
653年 孝徳天皇の意に反し、群臣らを率いて板蓋宮へ遷る
654年10月 孝徳天皇崩御
655年1月 母・斉明天皇即位(皇極天皇重祚)。引き続き皇太子
656年 岡本宮へ遷る
658年11月 蘇我赤兄の密告を受け、孝徳天皇の遺児・有間皇子を謀反の罪にて処刑
659年 阿倍比羅夫に蝦夷国(東北地方・北海道)遠征を命じる
660年 百済が唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図って白村江の戦いを起こすも敗戦した。百済救援を指揮するために筑紫に滞在した。

漏刻(ろうこく、水時計のこと)を作った。

661年8月24日 斉明天皇が朝倉橘広庭宮にて崩御した。
その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制した(天智天皇元年)
663年7月 白村江の戦いにて唐・新羅連合軍に大敗
663年8月28日(天智天皇2年7月20日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、唐に遣唐使を派遣する一方で、
664年2月 甲子の宣かっしのせん。白村江の敗戦によって、朝鮮半島から全面的に撤退したのち、大陸からの侵攻という危機感と、対外政策の失敗を追及する諸豪族の動向とに対処して、大皇弟大海人皇子を政局の正面にたて、内政改革の諸施策を発令した。

・大化以来の冠位を改めた。冠位十九階制を冠位二十六階制に改定して、下級官僚の階数を増加するとともに、諸氏を大氏おおうじ小氏こうじ伴造氏とものみやつこうじらに区分し、それぞれの氏上うじのかみに、大刀たち小刀かたな干楯弓矢たてゆみやを賜って、諸氏を統率する象徴とした。

民部(天皇家の公的支配民)家部(諸氏の私有民)を定めた(復活させた)
672年の壬申の乱を経て、675年に民部は収公(公民化)され、家部は律令制下の氏賤うじのせん家人けにんになって存続した。

667年4月17日 近江国大津宮(現在の大津市)へ遷都した。
668年2月20日 天皇に即位。

同年 4月10日 同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。

同年 10月 高句麗が唐に攻め滅ぼされる。この年、「近江令」制定

669年11月13日 中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。
670年2月 「庚午年籍」を造る(一般の公民について戸籍に登録)
公地公民制が導入されるための土台を築いていった。
671年1月2日 第一皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)を新しく太政大臣とした(後の納言の前身)

671年10月 病に倒れる。なかなか快方に向かわず、重態となったため、弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、吉野へ去った。

671年11月23日 大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。

671年 大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始したとされる。671年での日付(4月25日)に対応するグレゴリオ暦 の6月10日は時の記念日として知られている。

天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかった。
しかし、天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子が大友皇子に勝利して即位し天武天皇となる。

以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。
称徳天皇崩御後に、天智の孫・白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇となり、以降は天智系統が続く。

大海人皇子から額田王を奪ったという話は有名であるが、事実ではないという説もあり、真偽ははっきりしない。

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