【人名】天武天皇/大海人皇子

天武天皇

絵:天武帝御影 大和国矢田山金剛寺 蔵(public domain)

【人名】
天武天皇/大海人皇子
(てんむてんのう/おおあまのおうじ)

第40代天皇(在位:673年3月20日~686年10月1日)

舒明天皇じょめいの第三皇子。兄の天智天皇てんぢてんのうを助けたが、兄が崩御すると吉野に入り兵をあげ、兄の第一皇子・大友皇子おおとものおうじ弘文天皇こうぶんてんのう)を自害させた (壬申の乱 じんしんのらん)。

飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやで即位し、皇権の安定化、改新事業の推進と律令体制の強化として、八色の姓やくさのかばねの創始、官位制の拡充を行った。

晩年に国史として帝紀・旧辞の編纂を指示し、のちの古事記・日本書紀の資料となった。また、初めて天皇号を使用したとされる。

名 前

漢風諡号:天武天皇
和風諡号:天渟中原瀛真人天皇あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと
諱 :大海人おおあま
別称:浄御原天皇きよみがはらのすめらみこと

生没年

生 年:631年(舒明3年)説が有力
没 年:686年10月1日

親 族

父  :舒明天皇じょめいてんのう
母  :皇極こうぎょく斉明天皇さいめいてんのう宝皇女たからのおうじょ) ※諸説有
配偶者:鸕野讚良皇女うののさららのひめみこ持統天皇じとうてんのう(皇后、天智天皇の皇女、母は蘇我遠智娘)
   :大田皇女おおたのひめみこ(妃、天智天皇の皇女、母:蘇我遠智娘)
   :大江皇女おおえのひめみこ(妃、天智天皇の皇女、母:忍海造色夫古娘)
   :新田部皇女にいたべのひめみこ(妃、天智天皇の皇女、母:阿倍橘娘)
   :氷上娘ひかみのいらつめ夫人おおとじ、藤原鎌足の娘、母:不明)
   :五百重娘いおえのいらつめ(夫人、藤原鎌足の娘、母:不明)
   :大蕤娘おおぬのいらつめ(夫人、蘇我赤兄の娘、母:不明)
   :額田王ぬかたのおおきみ(采女、鏡王かがみのおおきみの娘、母:不明)
   :胸形尼子娘むなかたのあまこのいらつめ(嬪、筑紫国宗像郡豪族・胸形徳善の娘、母:不明)
   :宍人穀媛娘ししひとのかじひめのいらつめ宍戸大麻呂ししひとのおおまろの娘、母:不明)【紀】穀は木偏に穀
子女 :草壁皇子くさかべのみこ(母:鸕野讚良皇女/持統天皇)
   :大伯皇女おおくのひめみこ(母:大田皇女)
   :大津皇子おおつのみこ(母:大田皇女)
   :長皇子ながのみこ(母:大江皇女)
   :弓削皇子ゆげのみこ(母:大江皇女)
   :舎人親王とねりしんのう(母:新田部皇女)
   :但馬皇女たじまのひめみこ(母:氷上大刀自)
   :新田部親王にいたべしんのう(母:大原大刀自)
   :穂積親王ほづみしんのう(母:大蕤娘)
   :紀皇女きのひめみこ(母:大蕤娘)
   :田形皇女たかたのひめみこ(母:大蕤娘)
   :十市皇女とおちのひめみこ(母:額田王)
   :高市皇子たけちのみこ(母:胸形尼子娘)
   :忍壁皇子おさかべのみこ(母:宍人穀媛娘)
   :磯城皇子しきのみこ(母:宍人穀媛娘)
   :泊瀬部皇女はつせべのひめみこ(母:宍人穀媛娘)
   :多紀内親王たきないしんのう(母:宍人穀媛娘)
兄弟姉妹:古人大兄皇子
ふるひとのおおえのみこ

    :天智天皇てんぢてんのう
    :間人皇女はしひとのひめみこ(孝徳天皇皇后)
    :蚊屋皇子かやのみこ

略 歴

631年ごろ 舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれたとされる(諸説有)兄は中大兄皇子(天智天皇)、姉は間人皇女(孝徳天皇の皇后)。

即位前は大海人皇子と呼ばれた。大海人の名は、幼少期に養育を受けた凡海氏おおしあまうじ(海部一族)と推定されている。

641年 父・舒明天皇崩御。翌年に母が皇極天皇として即位。
645年 乙巳の変。中大兄皇子が20歳で乙巳の変を起こしたとき、大海人皇子は年少で陰謀には関わらなかったのではないかとされる。

同年 孝徳天皇即位。

646年 改新の詔。
633年 白村江の戦いに敗戦。
653年 孝徳天皇と不仲になった、兄・中大兄皇子は天皇の意に反し、母・皇極天皇や姉・間人皇女(孝徳天皇皇后)など多くの官僚を率いて飛鳥に戻る。
654年 姉・間人皇女が亡くなる。
655年 母が斉明天皇が即位(重祚)政治の実権は中大兄皇子が執ったとされる。
中大兄皇子の娘4人を妻とした(鸕野讚良皇女、大田皇女、大江皇女、新田部皇女)
百済復興のための朝鮮半島出兵で、斉明天皇と中大兄皇子が筑紫(九州)に宮を移したときにも、大海人皇子も妻を連れて従った。
661年1月 大田皇女が大伯海おおくのうみ(岡山県邑久おく郡)で大伯皇女を生む。

同年7月 斉明天皇崩御。中大兄皇子は即位せずに称制で統治。

663年 大田皇女が筑紫の娜大津なのおおつで大津皇子を生む。
664年 大海人皇子は中大兄皇子の命を受け、冠位二十六階制を敷き、氏上を認定し、民部と家部を定めることを群臣に宣べ伝えた。
667年 斉明天皇の葬儀があり、間人皇女が斉明天皇と合葬になり、同年に大田皇女が亡くなり、その陵の前に葬られた。(大海人の母、姉、妻)

大伯皇女は7歳、大津皇子は5歳で、母方の祖父である天智天皇に引き取られたという。

671年 天智天皇が病に臥せる。天智天皇は自身の皇子である大友皇子を太政大臣につけて後継とする意思を見せはじめた。大海人皇子は大友皇子を皇太子として推挙し、自ら出家を申し出、吉野宮(現在の奈良県吉野)に下った。天智天皇は大海人皇子の申し出を受け入れた。
672年1月7日 天智天皇崩御。壬申の乱で大友皇子を自害に追い込む。
673年 飛鳥浄御原宮で即位。人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。
679年 吉野の盟約。
天武天皇は、皇后・鸕野讚良皇女と6人の皇子とともに吉野で、草壁皇子を次期天皇とすると宣言し、異母兄弟同士助けてあい争わないことを誓わせた盟約。6人の皇子とは、天武天皇の次男・草壁皇子、三男・大津皇子、長男・高市皇子、四男・忍壁皇子、天智天皇の次男・川島皇子、七男・志貴皇子
681年 飛鳥浄御原令の制定の詔。日本史上、最初の体系的な律令法。令22巻。律令のうち令のみが制定・施行された。

天皇号が制定され、本令により法典に明記された。その他、戸籍を6年に1回作成すること(六年一造)、50戸を1里とする班田収授の規定など、律令制の骨格が本令により制度化されたと考えられている。律令の編纂作業はその後も継続され、701年の大宝律令によって、天武天皇が企図した律令編纂事業が完成した。

684年 八色の姓制定
真人まひと朝臣あそん宿禰すくね忌寸いみき道師みちのしおみむらじ稲置いなぎの八つの姓の制度のこと。
686年5月24日に病気になった。仏教の効験によって快癒を願ったが、効果はなく、7月15日に政治を皇后と皇太子に委ねた。7月20日に元号を定めて朱鳥とした。その後も神仏に祈らせたが、9月11日に病死した。

10月2日に大津皇子は謀反の容疑で捕らえられ、3日に死刑になった。殯の期間は長く、皇太子が百官を率いて何度も儀式を繰り返し、688年(持統天皇2年)11月21日に大内陵に葬った。689年(持統天皇3年)に草壁皇子が死んだため、皇后が即位した。持統天皇である。

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