【人名】用明天皇

用明天皇
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【人名】
用明天皇(ようめいてんのう)

第31代天皇(在位:585年10月3日~ 587年5月21日)
父は欽明天皇、母は堅塩媛(蘇我稲目の娘)
厩戸皇子らの父。

都は磐余池辺雙槻宮いわれのいけのへのなみつきのみや。5世紀前半に履中天皇が造った磐余池のほとりに建設されたとされている。

仏法を重んじ、実質仏教を公認、後の仏教隆盛につながった。

天然痘のため、在位2年あまりで崩御。享年36歳。陵は、河内磯長原陵こうちのしながのはらのみささぎに治定されている。

名 前

漢風諡号:用明天皇
和風諡号:【紀】橘豊日天皇たちばなのとよひのすめらみこと
諱 :池辺
別称:【記】橘豊日命たちばなのとよひのみこと大兄皇子おおえのみこ(即位前)

生没年

生 年:551年(540年など諸説あり)
没 年:587年5月21日

親 族

父  :欽明天皇
母  :蘇我堅塩媛
配偶者:穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ(皇后、庶妹、欽明天皇、蘇我小姉君の娘)
   :蘇我石寸名そがのいしきな(嬪、蘇我稲目そがのいなめの娘)
   :葛城廣子かづらぎのひろこ(妃、葛城磐村かづらぎのいわむらの娘)
子  :厩戸皇子(母:間人皇女)
   :来目皇子(母:間人皇女)
   :殖栗皇子(母:間人皇女)
   :茨田皇子(母:間人皇女)
   :田目皇子・豊浦皇子(母:石寸名、用明天皇崩御後、間人皇女を妃とした)
   :当麻皇子・麻呂子皇子(母:廣子)
   :酢香手姫皇女(母:廣子、用明天皇即位時に斎宮として伊勢神宮に遣わされた)
兄弟姉妹:第一皇子: 箭田珠勝大兄皇子やたのたまかつのおおえのみこ(母:石姫皇女)
    :第二皇子: 訳語田渟中倉太珠敷尊おさたのぬなくらのふとたましきのみこと(母:石姫皇女、敏達天皇)
    :皇女: 笠縫皇女かさぬいのひめみこ(母:石姫皇女)
    :【記】皇子: 上王かみのみこ石上皇子いそのかみのみこ)(母:小石比売命)
    :【記】皇子: 倉皇子くらのみこ(母:日影皇女)

    :皇女: 磐隈皇女いわくまのひめみこ(母:堅塩媛)
    :皇子: 臘嘴鳥皇子あとりのみこ(母:堅塩媛)
    :皇女: 豊御食炊屋姫尊とよみけかしきやひめのみこと・額田部皇女(母:堅塩媛、推古天皇)
    :皇子: 椀子皇子まろこのみこ(母:堅塩媛)
    :皇女: 大宅皇女おおやけのひめみこ(母:堅塩媛)
    :皇子: 石上部皇子いそのかみべのみこ(母:堅塩媛)
    :皇子: 山背皇子やましろのみこ(母:堅塩媛)
    :皇女: 大伴皇女おおとものひめみこ(母:堅塩媛)
    :皇子: 桜井皇子さくらいのみこ(母:堅塩媛)
    :皇女: 肩野皇女かたののひめみこ(母:堅塩媛)
    :皇子: 橘本稚皇子たちばなのもとのわかみこ(母:堅塩媛)
    :皇女: 舎人皇女とねりのひめみこ(母:堅塩媛)

    :皇子: 茨城皇子うまらきのみこ(母:小姉君)
    :皇子: 葛城皇子かづらきのみこ(母:小姉君)
    :皇女: 穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ(母:小姉君)
    :皇子: 泥部穴穂部皇子はしひとのあなほべのみこ(母: 小姉君)
    :皇子: 泊瀬部皇子はつせべのみこ(母:小姉君、崇峻天皇)

    :皇女: 春日山田皇女かすがのやまだのひめみこ(母:糠子)
    :皇子: 橘麻呂皇子たちばなのまろこのみこ(母:糠子) 

略 歴

生年不明 欽明天皇の第四皇子として生まれる。母は堅塩媛。
585年 敏達天皇から「先の天皇(欽明)の勅に背いてはならない。任那の政を勤め修めなさい」と詔を受ける。

同年 敏達天皇 病により崩御。
   天皇崩御のとき、穴穂部皇子は皇位を欲していて、憤って
   「なぜ死んだ王に仕え、生きている王には仕えないのだ」と大声を発した。
   蘇我馬子に諫められ果たさなかった。

同年 即位して天皇となる。
   磐余いわれに宮を造る。名を池辺双槻宮いけべのなみつきのみやという。
   先代に続き、蘇我馬子を大臣、物部守屋を大連とした。

同年 酢香手姫皇女を伊勢神宮に拝して日神の祀りに奉らせた。

586年 穴穂部間人皇女を立てて皇后とする。これは四男を生んだ。
其の一を厩戸皇子という。
其の二を来目皇子という。
其の三を殖栗皇子という。
其の四を茨田皇子という。

蘇我稲目の娘の石寸名を嬪とした。これが生んだのは
田目皇子。またの名は豊浦皇子。

葛城磐村の娘の広子は一男一女を生んだ。
男を麻呂子皇子という。これは 当麻公たぎまのきみの先祖である。
女を酢香手姫皇女という。三代の天皇にわたって日神に仕えた。

同年 穴穂部皇子(用明天皇の母違いの兄弟)は、額田部皇后(欽明天皇皇后、用明天皇妹)を目当てに殯宮に入ろうとしたが、敏達天皇の寵臣三輪君逆は衛兵を呼んで宮の門を閉ざして入れさせなかった。
穴穂部皇子は、天皇の子の私を拒んで入れないのは甚だ無礼だとして、守屋と馬子に命じて逆を殺そうとした。守屋は兵を率いて出発したのを馬子は伝え聞き諫めたが、皇子は聞かずに行ってしまったので、馬子はやむなく随行し、磐余に至りさらに諌めた。
守屋は兵を率いて逆らを斬り、馬子は歎いて「天下の乱れは久しくない」と言ったが、守屋は「お前のような小臣が知るところではない」と答えた。
これにより額田部皇后と馬子は共に穴穂部皇子を恨むようになった。

587年
磐余いわれの河上で新嘗を行う。この日、天皇は病にかかり宮に還った。群臣が侍った。
天皇は群臣に詔して「朕は三宝に帰依しようと思う。卿らも議るように」と。群臣は入朝して議った。
守屋と中臣勝海は「どうして国つ神に背いて他の神を敬うことがあろうか。元来このようなことは聞いたことが無い」
馬子は「詔に従って助け奉るべきである。誰が異なる考えを生じようか」
穴穂部皇子が豊国の法師を連れて内裏に入ったので、守屋は横目で睨んで激怒した。

守屋は群衆から命が狙われと知り、朝廷を去り河内国へ退き味方を募った。
中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛したが、舎人迹見赤檮に斬られる。

用明天皇が崩御すると、守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと図るが、馬子は額田部皇后の詔を得て、穴穂部皇子と宅部皇子を誅した。その後、馬子は軍を率いて守屋を滅ぼす(丁未の乱)

天皇の病で、臨終という時に鞍部多須奈が奏上して「臣は天皇の御為に出家して脩道致します。また丈六の仏像及び寺を造って奉じます」と。天皇は悲しんで大声で泣いたという。
南淵みなぶち坂田寺さかたでらの木の丈六の仏像・ 挟侍きょうじの菩薩がこれである。

587年 大殿で崩じる。
法隆寺は、用明天皇が自らの病気平癒を祈って薬師像と寺の建立を発願したという。
その完成を待たずに崩御。遺命を受けた推古天皇と厩戸王が607年に完成した。

磐余池上陵いわれのいけのえのみささぎに葬られる。
河内磯長陵かわちのしながのみささぎに改葬される。

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