奈良時代末期に藤原仲麻呂(南家)が道鏡に敗れて一時政治への介入が出来ずに桓武天皇が自ら主導権を握り政治を司りました。794年に遷都が行われ平安京へと移りました。
実権を取り戻したのが嵯峨天皇の側近として実力を発揮したのが藤原冬嗣でした。そして平安一の栄華に上り詰めたのは道長であったのです。
藤原氏の栄枯盛衰
始まりは 藤原不比等からはじまるのよ~
不比等は鎌足の子といわれてるが実は天智天皇の子という説が有力だ。不比等は飛鳥時代から奈良時代初期の人です。ご落胤説は色々な書物に書いてあり信憑性は高いと平安時代には信じられていました。が、歴史学者の中では不支持らしいです。
不比等が幼少の頃に壬申の乱があり、彼は罰せられませんでしたが、藤原氏は天智天皇新制の時には不遇の存在でした。田辺史大隅という人の家で史学や法律の勉強をし大舎人の登用制度によって出仕して下級官人からの返り咲いたという苦労人です。
ここからが不比等快進撃がはじまるのです。不比等は飛鳥なら時代なのでこの快進撃はまた別の機会に~
ついにここまでか?
奈良時代の末期に不比等の地盤固めをついに破る男があらわれます、道鏡です。藤原仲麻呂は藤原4兄弟の相次ぐ病死によって勢力が後退していきました。
光明皇后(藤原4兄弟の妹)は兄弟の死に不安を感じ聖武天皇に大仏建立を願いました。
この間疫病をかわした橘諸兄が参議から大納言次いで右大臣まで出世します。諸兄のもと順調に昇進していきます、光明皇后の後ろ盾もあり順調に昇進していき、左大臣の諸兄と拮抗するようになりました。
749年聖武天皇が譲位して阿倍内親王が即位(孝謙天皇)すると仲麻呂は参議から中納言をへずにいきなり大納言になり、光明皇后のために設けられた紫微中台の令(長官)と、中衛大将を兼ねた。
紫微中台とは光明皇后のための家政的機関を装っていましたが、事実上の政治・軍事部門でした。
中衛大将とは君主直属の警護する軍人・軍団をいう。
左大臣橘諸兄を圧倒する勢いで事実上の「光明=仲麻呂体制」が確立された。
橘奈良麻呂の乱
一気にのし上がってきたのを快く思わない人たちもいます。
それが橘諸兄の子奈良麻呂でした。皇太子廃立を機に大伴古麻呂らとともに、仲麻呂を殺害して天武天皇の孫にあたる皇族を擁立する反乱を企てます。
密告により計画がばれて奈良麻呂一味もろとも捕まり443人もの人が処刑され反乱に関与したとして右大臣藤原豊成も左遷された。これにより最高権力者に仲麻呂はなりあがるのです。
光明皇太后崩御と道鏡
760年に皇族以外から初の太政大臣に仲麻呂は任命されたが、光明皇太后が崩御されそれからがどんどん坂を下るがごとく旗色が悪くなっていき多くの腹心を失っていくのです。
この頃孝謙上皇も病がちになり病の看病をした道鏡を寵愛するようになる、(当時の看病は今のようではなく祈祷や護摩をたいたりすることです。医学的な看病ではありません)
その行為がやりすぎだという事で仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせた。
これにより激怒した孝謙上皇は出家して尼になってしまう。孝謙上皇・道鏡VS淳仁天皇・仲麻呂の様相を呈していきます。そして孝謙上皇は道鏡に僧を管理する僧官・少僧都にしてしまいました。
藤原仲麻呂の乱
孝謙上皇・道鏡VS淳仁天皇・仲麻呂に危機感を抱いた仲麻呂は自ら都督に任じ軍事力を把握したが、天皇の側にあるべき御璽・駅鈴を奪われ、謀反の疑いありと先手をうたれてしいます。
そして平城京を脱出したのち子の辛加知が国司を務めていた越前国に入り再起を図るが、官軍に阻まれて失敗。敗走ののち捕らえられ斬首。1週間前の軍事力把握はなんだったの?な状態で急転直下の滅亡にいたりました。
六男の刷雄は死刑を免れて隠岐国への流罪となりす。
十一男と伝わる徳一も処刑されず東大寺に預けられて出家しました。
藤原北家登場
こうして、仲麻呂の時代は終わりをつげ、794年遷都が行われ舞台は平安京に移ることになります。
藤原氏の衰退を止めたのが嵯峨天皇の側近として実力を発揮した北家の藤原冬嗣です。
やっと出来てきましたね冬嗣。
南家がほろびたからねぇ~。
ここで、不比等が蒔いてきた花が開くって事なんです。
だから、不比等を説明してから仲麻呂にいったんだねぇ。
やっと真打登場かぁ
いやいや、真打はまだまだこれからですよ~。
冬嗣は蘇我氏がはるか昔にやったことをここで行う事でがっちりとした地盤固めをします。天皇のもとへ娘たちを嫁がせて外戚とし右大臣まで上り詰めるのです。
この人、いろいろな文献をあたっても邪魔者を亡き者にしてるという事がかいてないのです、人物像はしごく温和な頭の良いひとのようで、一族の勉学などを見ていあげていたようですね。とても優しく他人様に接していたので人々の歓心もあつめていたようです。
なんでもかんでも怒鳴り散らす、邪魔なら亡き者にとか言う人とは少しちがうようですよ~。こうして嵯峨天皇の信頼も厚くなるのもわかりますよね。やっぱり上司は優しくて頭の良い人がいいという事でございます。
息子の良房は父とはまた別な性格だったようです。しかし天皇からの信頼はあったとみえて日本初の当時、天皇の皇女が臣下に降嫁する事は禁じられていたにもかかわらず嵯峨天皇の皇女源潔姫が臣籍降下しています。そして摂政にもなってる人物で、これも皇族以外から摂政になったのは良房が初めてとなります。
良房の子基経もまた関白まで上り詰めるという、藤原家の権勢がどんどん上がっていくという事になりました。まだまだ続けられますが、明治時代まで行ってしまうのでこのへんでおわります(笑)
まとめ
藤原氏は天皇と外戚としていくことで、一族が有利になるようにしていきその一番の栄華を極めたのが平安時代の摂関政治だといわれてます。
藤原道長の 「この世をば わが世とぞ思う 望月の欠けたることも なしと思へば」と歌うほど藤原氏は全盛期を迎えていったのです。
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