3回に渡ってお届けしてまいりました遣唐使の話題も4回目。
今回は最終回ですので、少し詳しく調べてみました。
飛鳥時代(630年)に始まり、奈良時代を経て平安時代(894年)にまで続いた遣唐使。794年、桓武天皇は平安京に遷都し、400年続いた雅やかな平安時代が始まりました。
一応お約束を言っておきましょうかね。
794年ウグイス平安京!
平安京と聞くと、
平安京エイリアンってイメージしかない(笑)
はいはい。
騎竜は過去記事読んで思い出そうね
この後も、宦官の専横をはじめとした、政情不安が続き、次々に皇帝が代わっていきます。唐の第23代皇帝・哀帝は禅譲を余儀なくされ、約300年にわたった唐は終焉を迎えました。
穆宗(在位820~824年)、文宗(827~840年)、武宗(840~846年)、宣宗(846~859年)、懿宗(859~873年)、僖宗(873~888年)、昭宗(888~904)、哀帝(904~907年)
なんか、冒頭の説明なんだけど、
唐の歴史のほうが多い気がするが!?
いやー個人的には三国志とか含めて
あっちのほうも好きだしつい(笑)
今は12国記にハマってるし、
わからないでもないけど(笑)
相手国である唐の衰退とともに次第に遣唐使の意義が失われていきました。
894年菅原 道真らによって遣唐は停止され、907年の唐が滅亡とともに廃止となりました。
遣唐使の歴史(最終回)
第18回 出国804年 帰国805年 南路
18回目は最初からトラブル続きでした。803年4月16日に難波津(古代大阪湾)より4隻構成で出航しますが、5日後の21日暴風に遭い、船は損傷し航行不能、乗員も多数水死と報告されました。修理のため同年での渡航を断念します。
翌804年5月12日、難波津を出航、7月6日肥前国松浦郡田浦(長崎県五島列島)を経由しますが、はやくも翌日に4隻は離散してしまいます。
翌日にはぐれるって、いくらなんでも
田浦出発のタイミングが悪すぎるような・・・。
霊仙や最澄もいるし強気で行ったのでは!
(このころ空海は留学僧で無名)
たしかに結果的に、
高僧を乗せた船はちゃんと着いているけどね。
日本後紀には、
『第三第四兩船。火信不應(第3・4船、火信に応じず)』と。
棒の先に鉄籠を付け篝火を焚き、火信としていたようです。
なんか注目するところがマニアックなんだよな~(笑)
第1船の大使・藤原 葛野麻呂らは遭難し、804年8月10日に目的地よりもはるか南方の福州長渓県赤岸鎮という今まで行ったこともない海岸に漂着。遣唐使など来たこともないし、言葉も違っていたなどの理由で、現地では県令には取り合ってもらえませんでした。仕方なく船を修理し250kmも離れた州庁のある福州市まで海路で移動します。船を修理している間に、空海は近隣の村を訪れたという記録が残っています。
2か月後の10月3日にようやく福州市に到着。13日に州の使者から書面を求められた際に、遣唐使の証(印符)がはぐれた第2船にあったのことと、葛野麻呂の悪文悪筆で本物の遣唐使か疑われます。しかし達筆な空海が代筆し疑いが晴れました。空海は抜け目なく自分の20年の長安留学の嘆願も一緒に提出しています。
11月3日に長安に向かい出発、12月23日に長安入りし、12月25日になんとか皇帝・徳宗への謁見は出来ましたが、徳宗は翌年1月に崩御していることから、すでに不調であったのかもしれません。
第2船は804年9月1日に無事明州に到着したが、副使・石川 道益が病で没します。同日には代行した菅原 清公ら27名は長安へ向いました。最澄・義真らは9月15日から中国三大霊山の天台山へと旅立った。
合流した第1船・第2船一行は徳宗の崩御(1月23日)と順宗の即位(1月28日)に遭遇。遣唐使は葬儀に際し、承天門に杖を立て、衣冠を着し挙哀(死者を弔うために泣き声をあげる礼)したと記されている。
第1船・第2船は、805年5月18日に明州より出航(第1船は福州より廻航してあった)、6月5日対馬を経由して6月8日に帰国。最澄は大使らと共に帰国した。
第3船、第4船は遭難したため。捜索するために、大伴 峰麻呂が遣新羅使として派遣されます。第3船の三棟 今嗣らは船を放棄・脱出して大宰府まで帰り着きましたが、船を放棄したことから処罰を受けました。放棄した船は805年7月22日能登国珠洲郡(石川県能登半島)に漂着しました。
第4船も遭難しましたが、高階 遠成らは唐に渡り、船を修理。遠成は在唐中に唐朝より官を与えられます。帰路は留学生・橘 逸勢や留学僧・空海らを伴って806年8月に明州を出発し、暴風雨に遭遇して五島列島福江島に停泊。806年10月に大宰府に到着。12月に朝廷に復命しました。第4船は805年に一度帰国して再度渡ったともいわれていますが、1船で行くものなのか疑わしいですし、出航の記録なども一切ないので、そのまま修理して帰ったと考えました。
留学僧・空海は本来20年の留学予定を2年に短縮。唐朝の許可を得て経典や曼荼羅など多数の文物を収集して帰国。空海は「虚しく往きて実ちて帰る」といいました。2年前は無名の留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを表しています。空海がもたらしたのは密教を含めた最新の文化体系だったのです。
事故とはいえ高価な国進物を満載した船を
放棄したのはさすがに。
いままで往路で事故ることは少なかったから、
問題にならなかったんだろうね。
大宰府は、使命の最要は国信物にある。
これを失い存命を求めた判官三棟今嗣らを厳罰に処す。
命懸けで守れってことか~。
遣唐使はやっぱり厳しい!
第1船
藤原 葛野麻呂(大使)公卿。藤原北家、大納言・藤原小黒麻呂の長男。
空海(留学僧)弘法大師で知られる真言宗の開祖。中国より真言密教をもたらした。
第2船
石川 道益(副使)才能があり書記に通じ行儀作法も美しく。唐で没したことを惜しまれた。
菅原 清公(判官)公卿にして文人・人徳者とされる。菅原道真の祖父。今上天皇の直系祖先。
霊仙(僧)皇帝・憲宗の寵愛を受け三蔵法師の号を受ける。秘伝を守るため帰国を禁じられた。
最澄(僧)天台宗の開祖。伝教大師の諡号を贈られた。
義真(最澄の弟子。訳語)天台宗の僧。
橘 逸勢(留学生)語学が苦手だったので、琴と書を学び後に第一人者となった(のちの三筆)
伴雄 堅魚(碁師)平安時代初期の貴族・棋士。官位は正五位下・美濃介。
第3船・三棟 今嗣、第4船・高階 遠成(判官)
第19回 出国838年 帰国839年 往路:南島路 帰路:北路
前回の遣唐から30年あまりが経ちました。その間は渤海国との親交をしています(遣渤海使)。新羅・渤海からの商船が往来し、それを狙う海賊も出没したようです。実質的には遣唐使としては最終回の第19回ですが、最後まで大波乱となってしまいます。
834年1月19日、藤原 常嗣らに遣唐使の任が下されます。
2年あまりの入念な準備を行い、836年5月14日に遣唐使船4隻で難波津より出航しますが、嵐に遭い約2か月かけて、7月2日ようやく太宰府を発ちます。7月8日に第2船、7月16日に第1・4船は風に戻され九州各地に漂着。7月20日に第3船は対馬沖で遭難し船が損傷。100余名が行方不明(判官・丹墀 文雄は溺死したとみられる)生存者25名は船体で筏を作り23日間漂流。多くが餓死したなか真済・真然らは生き残り島に漂着し島民に助けられた。8月25日第3船の生存者は3名という惨事が朝廷に報じられました。
837年7月22日、仕切り直しで、前年に対馬沖で壊れた第3船を除く、3隻で出航しますが逆風に遭い漂着し、この年の渡航を断念することになります。
遣唐使たちは、度重なる出航の延期に、
各所で祀りを行い航海の無事を祈願します。
第3船の生き残り真済・真然は不吉だとして
乗船を認められませんでした。
これでは真言宗僧の経典などが確保出来ないとして、
円行を派遣を請い、なんとか認められます。
航海の無事を祈るとして遣唐使帰国まで諸国に
様々な経の転読などを命じたそうです。
838年6月17日夜半に第1・4船の2隻は出航。しかし第2船は出航しませんでした。度重なる出航で第1船は損傷していたので、大使・藤原 常嗣は自身の第1船と副使・小野 篁が乗る予定の第2船と交換。篁は常嗣への不信から親の介護や自身の病を挙げて渡航を拒否し隠岐国へ流罪となります。さらに伴 有仁ら4名も乗船を拒否して逃亡し処罰を受けました。小野 篁の拒否により副使不在となりましたが、現地では長岑 高名や藤原 貞敏らが代行しました。
今回も、なかなか出航できないね~。
第16回くらいからだんだんグダって来てるような。
危ないしもう遣唐使辞めたいって
雰囲気になってたのかな?
それもあるけど、唐は安史の乱の以降に衰退して、
取り締まりができない状態になったので、
普通に民間の商船が往来できたみたい。
なるほど、それならわざわざ危険な時期を選んで
遣唐使船で行かなくてもいいと考えるよね。
第1船・第4船は、838年6月23日に宇久島(五島列島)を通過。第1船は6月28日に揚州に着きますが、海岸に乗り上げて座礁し船体が大破。航行不能になったため、国進物などを運び出した。第4船も揚州にたどり着くが船体が損傷し上陸できない状態であったため、小舟で第1船と合流しました。
第2船は、1か月遅れて7月29日に大宰府を出発、8月10日海州に着きました。
10月5日、大使ら35名は長安に向かい、12月3日長安城に入る。円仁・円載らは大使らと分かれ天台山へ向かう。839年1月13日に長安で皇帝・文宗に拝謁。朝貢を果たすが、帰国途中で判官・藤原 豊並が亡くなった。
帰路は第1船・第4船は航行不能なため、大使らは新羅の船9隻を雇い分乗しました。
新羅第1船に大使・藤原常嗣、新羅第2船に長岑高名・円仁、新羅第3船に菅原善主、新羅第4船に藤原貞敏らが乗り、4月5日に海州東海県を出航、7月21日赤山浦を経由しました。
円仁ら4人は唐に留まるため新羅第1船から下船しますが、海州の役人に捜索され、結局停泊していた第2船に乗船させられます。8月19日新羅船7隻は肥前松浦郡生属島(長崎県)に帰着。第2船と新羅船1隻が未帰還であると伝えた(新羅船もう1隻は別れた?)10月9日に新羅船は筑前国博多津に帰着。
第2船は4月11日登州から出航。7月15日赤山浦に立ち寄り、そこで何かを察したのか円仁・常暁ら4人は下船し五台山の巡礼に向かいました。その後、第2船は8月頃に遭難し南海に漂着し、島民の襲撃を受け数人が殺害されます。良岑 長松、菅原 梶成らは壊船の廃材を集めて小船を作り島を脱出。
翌年4月8日菅原 梶成らは大隈国海岸に帰着し、別の小舟で漂流している良岑 長松の捜索を求めた。4月23日、大使・藤原常嗣は心労からか45歳の若さで亡くなります。6月18日、良岑長松らも同じ大隈国に漂着、奇跡の生還を果たしました。
離脱した円仁ら一行は唐に残留、9年後に「会昌の廃仏」の影響を利用して帰国した。円載は以降40年近く唐に滞在し、862年には入唐した真如法親王(高岳親王)の世話をしている。なお円載は後に帰国の途上にて遭難死してしまいます。
第1船
藤原 常嗣(大使)公卿にして、藤原北家、中納言・藤原葛野麻呂の七男。親子で遣唐大使。
長岑 高名(准判官)貴族。破損した遣唐使船の修理を担当した。
藤原 貞敏(准判官)貴族。藤原京家、刑部卿・藤原継彦の六男。琵琶名人としてしられる。
春道 永蔵(知乗船事)刀剣を神宮に奉納することを職掌としたという。
円仁(請益僧)第3代天台座主。慈覚大師とも。 入唐八家の一人。最澄の弟子。847年帰国。
円載(留学僧)最澄の弟子。40年近く唐に滞在。877年帰国の際に船が難破し亡くなる。
粟田 家継(絵仏師)絵師で、円仁の命で曼荼羅などを写し取ったという。
第2船
小野 篁(副使)公卿・文人。 参議・小野岑守の長男。小倉百人一首では参議篁。
藤原 豊並(判官)官人。藤原京家、豊前介・藤原石雄の子。帰路で病に倒れる。
良岑 長松(准判官)貴族。大納言・良岑安世の次男。帰路で遭難するも帰国。
伴 有仁(知乗船事)小野 篁とともに、乗船を拒否し逃亡。
第3船
丹墀 文雄(判官)対馬沖で遭難した第3船に乗船。溺死。
真済(請益僧)真言宗の僧。空海の十大弟子のひとり。生還したのち僧正に任じられた。
真然(留学僧)真言宗の僧
第4船
菅原 善主(判官)貴族。左京大夫・菅原清公(前回遣唐使)の三男。
伴 須賀雄(録事)囲碁の名人で伴雄堅魚と共に仁明天皇に召されて囲碁の対局を行ったという。
菅原 梶成(知乗船事・医師)奇跡の生還を遂げた。のちに針博士、侍医となる。
常暁(請益僧)入唐八家の一人。大元帥法を学び、平安御所の常寧殿で大元帥法を初めて行った。
円行(請益僧)真言宗の僧。入唐八家の一人。空海から伝法灌頂を受け密教者となる。
遣唐使では、常嗣に船を交換され不満を漏らしていますが、第1船は損傷して漏水していたとされています。これに対し篁は「己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法が罷り通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できない」と抗議したといいます。その反骨精神から野狂とも称されたそうです。
また篁は文才のある人物で、恨みの気持ちで西道謡という朝廷と遣唐使を風刺する漢詩を作ります。また、創作のようですが、「無悪善」と書かれた立て札(落書き)があり、篁はこれを、「悪無くば善かりなまし」=嵯峨(上皇)がいなければいいのに。と読めたので、上皇が激怒したという話もあります。
篁は、2年間隠岐へ流されますが、その時に読んだ歌。
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人にはつげよ海人の釣り舟
訳:広い海の多くの島を通って漕ぎ出して行ったと、都の人々に告げてくれ漁師の釣り船
小野 篁をはじめ、色々濃いキャラがいますね~。
プチ事典のほうで解説していきますね。
第20回(最終回)894年 中止
唐の混乱や日本文化の発達を理由とした道真の建議により停止。
907年に唐が滅亡し、遣唐使は廃止となった。
菅原 道真(大使)貴族、学者、漢詩人、政治家。晩年を大宰府で過ごした。
紀 長谷雄(副使)公卿・文人。従三位・中納言。『竹取物語』の作者の候補者の一人とされる。
まとめ
危険な航海を乗り越えたイケメンたちということで、お伝えいたしました。
当初は唐へは朝鮮半島沿いに沿岸航法で比較的安全に行けましたが、663年の白村江の戦いをきっかけとして、新羅との関係が悪化。危険な南路を選択せざるをえなくなりました。これにより多くの悲劇がおきました。
優秀な留学生は唐に渡り、阿部仲麻呂・藤原 清河らをはじめ唐朝に仕える人物もいました。吉備真備は、幅広い分野の学問を持ち帰り国造りに役立てました。また僧の最澄・空海たちは最先端の仏教を学び日本に広めました。
唐は755年におきた安史の乱以降に衰退し、これによって遣唐使の意義にも影響を与えることになります。そして894年遣唐使は停止。907年の唐の滅亡により廃止となりました。
遣唐使に選ばれた人物は、家柄もよく中級以上の官位。
学問・文学などでも優秀な人物が多く選ばれました。
礼儀・立ち振る舞いが優雅な人物。
まさにイケメンですの!
あなたは、どの人物が気になりましたか?
最後に、ついに帰国の叶いませんでしたが、唐では皇帝の側近にまで上り詰めた、天才・阿部仲麻呂の詩で締めくくります。
命を銜んで本国に使す 阿倍仲麻呂
命を銜んで 将に国を辞せんとす
非才 侍臣を忝くす
天中 明主を恋ひ
海外 慈親を憶う
伏奏 金闕を違り
騑驂 玉津に去く
蓬莱 郷路遠く
若木 故園隣る
西望 恩を憶ふ日
東帰 義に感ずる辰
平生の 一宝剣
留贈す 交りを結びし人に
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