騎竜ってどんな人?
性格は温和な平和主義者だと思います。基本的には楽観的でポジティブ思考です。
慎重すぎるのと、先延ばし癖があるので、物事をなかなか決められないなんてことも。
マイペースなのでペースが乱れると、あばば星人になります。
最近になってADHDと診断されました。
たしかに過去を振り返ると思い当たることがたくさんあります。
名前ハンドルネームの由来
じつは時期はっきりと覚えていないのですが、小学6年生から中学生1年生のころに、黒歴史的なファンタジーイラストを描いていて、そのときに考えたペンネームです。いかにも厨二っぽいですね。
インターネットの時代が訪れペンネームはハンドルネームも兼ねるようになりました。
その後「騎竜幻」とか「騎竜幻章」とか変化していったのですが、今はシンプルに「騎竜」だけとなっています。
生年月日など
197X年5月8日生まれです。4X歳
身長183cm、体重85kg(10kgくらい体重落としたい!)
牡牛座、O型、MBTIはINFP型(仲介者)
占いなどに当てはめてみると、そのまま当てはまる感じがします。
住まいと出身地
現在は神奈川県横浜市に住んでいます。
生まれは母の実家があった神奈川県秦野市です。その後幼稚園までは、父の実家がある東京都文京区で育ちました。家の目の前が後楽園遊園地だったので、祖父とヒーローショーとかを見に行ったのを覚えています。6歳からは7歳までは、秦野市に戻っています。
横浜には8歳から28歳まで20年間住んでいましたから、思い入れがたくさんあります。28歳から2018年まで、東京に住んでいましたが、故郷の横浜に帰ってきました。
出身校と職歴
最終学歴は、神奈川工業高校の電子科卒です。
ゲーム開発の仕事をしたかったので、ソフトウェアの勉強をしようとプログラマ(C言語)になりました。当時は景気が良かったので、仕事はいくらでもありましたから、一か月の残業時間は120時間超でした。実入りは良かったのですが、自分の時間があまりにも無いし、若干身の危険を感じるしで、ある程度スキルも身についたので、よしとしてやめました。
貯金もあったので、1年くらい定職にはつかず放浪生活をしていました。放浪生活中は、コンビニ店員をやってみたり、ときにはガテン系の日雇いをしながら、自分のやりたいことを探していました。おかげで、学校では身につかなかった、コミュ力と根性はついたかもしれません。次はデザインの仕事をやってみたいと思いながらも、専門学校にいくための貯金が無くなっていました。
22歳のとき、中学時代の同級生からの誘いで、現在の会社に勤め始めました。公共施設の運転管理です。職場は年齢層が高かったのもあって、PCが苦手な人が多かったのでプログラマ時代のスキルが重宝されました。先輩や同僚に恵まれたこと。なんにでも興味をもって仕事をしたこと。なにより色々な偶然が重なったことによって、いつしか事業所を任されるまでになりました。
所長職は負担も大きく3年目でダウン。2019年6月から休職しています。
特技・資格
特技は、PCハード関連(自作PC作成等)、オフィス系(Word、Excel、PowerPoint)とグラフィック系(Photoshop、Illustrator)等のソフト。JavaやC言語はたぶん忘れてます。
資格は、第一種電気工事士、衛生管理者、二級ボイラー技士、ボイラー整備士、乙四類危険物取扱者、下水道技術検定、ガス溶接、アーク溶接、移動式クレーン、アマチュア無線など。
趣味
ゲームが好きです。Game is Lifeでした。好きなジャンルはRPGとアクションです。
RPGは、PCゲームからで、古いところだとWizardry、Ultima、Might&Magic、The Black Onyx、夢幻の心臓、ファンタジアン、ハイドライドあたりが思い出深いです。ゲーム機では、DQ、FFなど有名どころのRPGは一通りやっていました。
その後、MMORPGの元祖UltimaOnlineを海外サーバーの時代から始めて以降は、オンラインゲームで遊んでばかりいました。高校時代にテーブルトークRPGをやっていたので、オンラインゲームと共通するものがあったのかと思います。RO、AION、FF11、FF14ときて最新は黒い砂漠となります。
ゲーセンでは、アウトランやアフターバーナーなどの、いわゆる体感ゲームばかりやっていたのですが、今はゲーム機でグランツーリスモやエースコンバットに変わっています。
生い立ち
ちょっと長くなります。興味のある方だけ読んでください。
生まれて~幼稚園時代
生まれて幼稚園までは、父の実家の東京都文京区でなに不自由なく育ちました。
祖父はオーダーメイドのスーツを作る職人で、客先は大企業の幹部。祖母は、菊坂で小料理屋を経営していました。両親は、東大の赤門の近くで喫茶店を経営していました。
早熟な育ちだったのか、言葉・計算・読み書きは、抜きんでていたようで、幼稚園までは神童と呼ばれていたそうです。真実だとしても、努力なしではこの時代までですね。祖父の仕事の関係で、割と裕福な家に行くことが多かったのですが、とても気に入られたと聞いています。
弟2人と妹が生まれ、4人兄弟になりました。
次男は自閉症でした。私と比較されて虐待をうけるようになっていました。
小学生時代
兄弟が増え東京の実家が手狭になったのと、私が小学校に進級するのに合わせて、母の実家の神奈川県秦野市に引っ越しますが、両親はとても不仲でした。
ある日、私が学校から帰ってくると「あなたはお父さんと暮らしなさい」と母からの手紙が置いてありました。母は弟たちを連れて家を出てしまったのです。
父は育児が出来なかったのか、短い間でしたが私は保護施設で暮らします。このころの記憶はあまりありませんが、後に母の方へ合流します。この選択が人生の大きな分岐点だったのかもしれません。
8歳のころに、母と合流し、たどりついたのは横浜の地でした。母だけで4人の子供を育てるのは、経済的にも厳しく貧乏生活が続きます。荒れた生活と不安から、私はあまり学校には行かなくなっていきました。先生に恵まれて、家でドリルなどをやっていたので、勉強面ではさほど問題はおきませんでしたが、社会性は育たなかったのかもしれません。
中学生時代
小学校にはあまり通わなかったので、中学校からは挽回すべく勉強をがんばりました。成績は学年では上位で、通知表では5か4(当時は5段階評価でした)クラスでも人気があったので学級委員長にもなりました。部活は生物部でした。地味な活動ながらも、顧問の先生が非常に葉っぱや微生物のスケッチは楽しかった思い出があります。
しかし、中学2年生のときに、2度目の分岐点ともいえる事件が起こります。
私が家に帰ると、部屋はひどく荒らされた状態でした。父方の親戚が、居所を突き止めたのです。当時に離婚や養育費の関係で裁判をしていたので、母が跡をつけられたようです。仕方なく横浜市内の別の場所に引っ越しをしました。
私は転校先の学校になじめず、また家に引きこもるようになりました。無理を言って、そのころあまり普及していなかったパソコンを買ってもらい、家でプログラムを作ったりゲームをして過ごしました。また一人で空想の世界に入り、ファンタジーイラストを描いたりするようになりました。
高校時代
入試はなにも勉強しませんでしたが、中1の基礎だけで合格。ゲームやイラストをきっかけに、初めて数人の親友が出来ました。電気科に入ったものの、デザイン科への憧れもありました。
TRPGに出会い冒険の世界に浸っていました。漫画研究部ではファンタジーイラストを描き、映画研究部に入り武器や防具のコスプレをし、撮影そっちのけで戦いの日々。学校の帰りには横浜西口のゲーセンで遊び、家に帰ればゲーム。楽しくも不真面目な夢のような毎日が続きましたが、代償に成績は無残な状態となりました。
分岐点
2015年ごろ、妹のもとに一通の手紙が届きました。それは長らく会っていなかった父の訃報でした。兄弟のなかで私だけは顔を覚えていたので、お別れをしてきました。父方の親戚に初めて会い、いろいろな話を聞きました。
父方の親戚はかなり裕福な家庭でした。地主で土地を貸したり造園業をやっていて、いまはのんびりと暮らしていること。父の兄弟たちは自動車販売の経営をしていて、私のいとこは、わりと有名なツール会社の社長であることもわかりました。
子供の頃にずっと面倒をみてくれてた祖父は、20年近く前に、亡くなっていたのですが、最期まで私に会いたかったと言っていたそうです。あの時父方で暮らしていたら、また違った人生だったのかもしれません。