遣唐使についての話題の後編です。
飛鳥時代の630年に始まった遣唐使ですが、第9回以降は、都は平城京に移り奈良時代となっています。仏教による鎮護国家を目指し、天平文化が華開いた時代です。遣唐使とともに唐渡った僧のなかには、現代では宗派の祖といわれる高名な人物もいました。
奈良の都・平城京を中心とした貴族・仏教文化。聖武天皇時代の元号から天平文化と呼ぶ。遣唐使によって、周の武 則天や唐の玄宗の文化、シルクロードを通じ西アジアの文化も日本にもたらされた。
710年立派な平城京ですね。
最近は710年ねばねば平城京らしいよ
騎竜は納豆好きだから、
そっちのほうが覚えやすいかもね(笑)
相手国の唐も安史の乱が起こり激動の時代でした。
755年に唐の軍人・安 禄山と史 思明が、皇帝・玄宗に対して起こした大規模な反乱です。二人の名をとって安史の乱と呼ばれます。
禄山らは、宰相の楊 国忠(楊 貴妃の従兄)と対立し挙兵。皇帝・玄宗の治世のもと平和に慣れ切っていた唐軍は反乱を抑えられず、1か月ほどで副都・洛陽が陥落。756年に玄宗は都・長安を出て蜀へ敗走しますが、禁軍により楊 国忠とその一族は処刑。さらに皇帝を惑わせたとして玄宗の腹心・高 力士の進言により楊 貴妃もまでもが亡き者とされます(馬嵬駅の悲劇)
貴妃を失った玄宗は退位し、皇太子の粛宗が皇帝として即位し、反乱鎮圧の指揮を行います。756年、粛宗はウイグル帝国へ援軍要請を行い、それに応じた敦煌王・李 承寀らとともに、安 禄山の軍を撃退していきます。
757年に病を患った安 禄山は、皇太子(息子)の安 慶緒と後継者問題で対立し暗殺され、父の後を継いだ慶緒は皇帝となります。この混乱に乗じて、唐・ウイグル軍は長安や洛陽を奪還。
慶緒も父・禄山の盟友・史 思明に討たれ、思明は皇帝として即位。さらに761年に思明も子・朝義によって暗殺されます。
762年上皇・玄宗と皇帝・粛宗が相次ぎ崩御。代宗が即位します。朝義はウイグル軍を混乱に乗じて唐に侵攻するよう仕向けますが、唐の使節はこれをなんとか説得し、朝義らを追撃。763年に8年にも及ぶ、安史の乱は終結しました。
このことは、遣唐使の存在意義にも影響を与えることになります。
遣唐使の歴史(後編)
第11回 746年 中止
新羅への牽制と黄金の輸入を目的としたと考えられていますが、中止となりました。予算の都合か、造船が間に合わなかったのか、はたまた政治的な混乱か。中止の理由は判りません。
そんな中、話題を提供してくれたのは、石上 乙麻呂(大使)です。左大臣・石上 麻呂の三男で官位は従三位・中納言。家柄・評判も良く、容姿風采も非常に美しかったとされています。儒教を信奉する一方、漢詩を好んだそうです。大使に任命されたものの、遣唐使としては出番はありませんでした。
そんなイケメン乙麻呂は、739年に故・藤原 宇合の妻・久米 若売との不義の罪で土佐に流されますが、これは乙麻呂の失脚を狙う陰謀説もあります。その時に読んだ歌。
参上る八十氏人の手向けする懼坂に、幣奉り 我はぞ追へる。
遠き土佐道を
父上にとって、私は愛しい子、母君にとって、私は愛しい子。
都に上る多くの人が祈る尊い坂に、私はお供えをして辿っていく。
遠い土佐へ向かう道を。
完全な嫌がらせだな~(笑)
そんな風な人選も度々あるのがこわいよね。
乙麻呂は運良く741年の恭仁京遷都に伴う大赦で
帰京できたみたいだけど。
遣唐使は、無事に帰れれば、昇進が約束されてるよね。
海外出張を無茶ぶりされるサラリーマンのような(汗)
第12回 出国752年 帰国754年 往路:南路 帰路:南島路
往路は無事長安へ到着し、皇帝の玄宗に謁見します。玄宗皇帝に謁見するのはこれが最後となってしまいます。翌年正月、朝貢諸国の使節による朝賀に出席します。日本の席次は新羅より下位に置かれたので、大伴 古麻呂は新羅は日本に朝貢を行っていたのだから席順がおかしいと抗議し交換させたという。
4隻で帰路に就く際、鑑真が来日を図りますが、唐でも高名な鑑真は搭乗を禁止されてしまいます。第1船の清河は鑑真を船から降ろしますが、第2船の古麻呂が鑑真を密航させます。在唐35年で唐の高官となっていた阿部 仲麻呂も第1船に乗り込み念願の帰国の機会が来ました。これが運命の分かれ道となります。
第4船は出遅れたものの、第1・第2・第3船は順調に琉球まで到達。3隻は種子島に向かいます。
- 第1船の、藤原 清河と阿倍 仲麻呂らは、出航直後に座礁。そのうえ暴風雨に遭い安南(現在のベトナム中部)にまで漂着。さらに現地民の襲撃に遭いほとんどが客死。
清河と仲麻呂らは2年後の755年に長安に帰還し、その後は唐に仕えることになります。 - 第2船は、大伴 古麻呂・鑑真・法進らを乗せ、屋久島、薩摩国などを経由して、何事もなく帰還。
- 第3船は、吉備 真備らが乗船。屋久島までは第2船と同行し紀伊国に漂着するも帰還に成功。
- 第4船は布勢 人主らが乗り、船が火災に遭う。舵取の川部 酒麻呂の勇敢な行動もあり鎮火。754年4月、薩摩国に漂着帰国。
藤原 清河(大使)帰国果たせず、河清と改名し唐に仕えた。778年に娘が来日。
大伴 古麻呂(副使)鑑真・法進らを帰還させる。
吉備 真備(副使)、布勢 人主、高麗 大山、大伴 御笠(判官)
藤原 刷雄(留学生)藤原仲麻呂の6男。後に恵美押勝の乱で流罪となるが復帰。
結果的には、藤原 清河と阿倍 仲麻呂が乗った、
第1船だけが帰国できませんでした。
ひょっとすると
鑑真を下したのが祟ったのかね?
鑑真は4度も来日を阻まれていて今回は5度目。
乗っていたから安全とも言えないような。
とはいえ僧が祈れば無事というのは、
遣唐使界での常識だったみたいだしね。
業界では常識だったんだね~(笑)
第13回 出国759年 帰国761年 往路:渤海路 帰路:南路
藤原 清河を迎えるために派遣。遣唐使船1隻、総勢99名の規模。安史の乱の混乱の影響を考え、渤海経由で入唐を目指しました。
しかし乱の影響により唐に入る人数を大使・高 元度や録事(通訳)の羽栗 翔ら11人に減らすこととなり、残りの副使・内蔵 全成ら80余人は引き返すことになりました。
高 元度ら11人は渤海国使節・楊 方慶と共に入唐しましたが、乱による混乱・政治的駆け引きなどで清河の帰国は許されず目的は果たせませんでした。一行は皇帝の側近と共に蘇州に向かい帰路は南路を選択。蘇州で船1隻を建造し761年8月に出発、南路で大宰府に帰国。
帰国に際し唐の皇帝・粛宗より、安史の乱で不足した武器類の補充を日本側は求められます。
これだけの大乱だと、
遣唐使の相手どころじゃないよね。
挨拶とかはいいから武器寄こせって
そりゃ言うよね(笑)
高 元度(迎入唐大使)高句麗王族系の渡来人。
内蔵 全成(迎入唐使判官)入唐できず、渤海使・高南申を伴って日本への帰国。
羽栗 翔(遣唐録事)通訳。第9回遣隋使の羽栗 吉麻呂の子。
羽栗 吉麻呂の子・翔が通訳で登場。
ついに親子で遣唐使に。
翔はそのまま唐に残り、
清河と共に過ごしたようだね。
兄の翼も後に活躍します。
第14回 761年 中止
船4隻を安芸(広島)から回航する際に2隻が浅瀬に乗り上げ座礁・破損。
正副大使の仲 石伴・藤原 田麻呂は解任となり中止となりました。
仲 石伴(大使)大納言・藤原 仲麻呂(恵美押勝)の養子。恵美押勝の乱で近江国で敗死。
藤原 田麻呂(副使)公卿。藤原四兄弟・藤原 宇合の五男。
中臣 鷹主(遣唐判官)中臣氏一門、神祇伯・中臣 名代の子。
唐の乱は続いています。
不穏な空気を読んでか中止となりました。
出発前から2隻も座礁とかもったいない(汗)
第15回 762年 中止
遣唐使船が2隻となったので規模を縮小。唐使・沈 惟岳を送ろうとしたが、風浪に恵まれず、安史の乱の影響もあり出航できないまま中止。その後、沈 惟岳は日本に帰化し、清海宿禰の姓氏が与えられた。
中臣 鷹主(送唐客使)恵美押勝の乱で冠位を剥奪。復帰後に判事などを行った。
高麗 広山(副使)藤原 田麻呂に代り副使となるが、恵美押勝の乱以降消息不明。
遣唐使の相次ぐ中止は恵美押勝の乱などの
政情不安も影響したと考えられます。
遣唐使の人物説明にもあったけど、
恵美押勝の乱ってなんだろ?
恵美押勝の乱は、太政大臣に上り詰めた藤原 恵美押勝(仲麻呂)が、
孝謙太上天皇・道鏡と対立し政権を奪取しようとした乱だよ。
詳しい内容は長くなりそうなので
別の機会に教えておくれ~
藤原がからむと、大体長くなりがちだからね(笑)
第16回 出国777年 帰国778年 南路
中止が続き、18年ぶりの遣唐。安芸国(広島西部)で遣唐使船4隻を建造します。
大使・佐伯 今毛人らは776年4月に出航し肥前国(佐賀・長崎)まで行くが、順風が吹かないことを理由に博多に帰還。8月、佐伯は来年への延期を奏上して許可され、11月に都に帰還し節刀を返上。12月に大伴 益立・藤原 鷹取の両副使は更迭され、替わって副使に小野 石根と大神 末足が任命された。
777年4月に都を出立した佐伯は病と称し、難波津より先に行くことを拒否。同年6月に副使・小野 石根が大使代行として渡航することとなった。光仁天皇から藤原 清河に帰朝の命令の書簡を託されたが、藤原 清河は既に死去。同年1月には阿倍 仲麻呂も死去していました。
777年6月24日に遣唐使一行は出航し、7月3日に揚州に到着。長安を目指すも、安史の乱による混乱から、長安行きの人数を40余人に制限される。翌778年1月に長安着。3月に皇帝・代宗へ拝謁し、4月に長安を離れて揚州に入り、9月に南路から順次帰国の途に就いた。
佐伯 今毛人が予定通り出発していれば、
藤原 清河や阿部仲麻呂に会えたのに!!
今毛人は、764年に藤原 仲麻呂を暗殺しようとして
大宰府に左遷させられてるみたいだし、
たぶん最初からやる気なし(笑)
東大寺、興福寺や怡土城なんかの造営に携わってるから、
航海はなんだか専門外な感じがするよね。
後に長岡京の造営にも関わっているみたい。
9月9日に第3船は帰路につくが、判官・小野 滋野や唐送使・孫 興進らは、3日後に浅瀬に座礁し航行不能となるが1か月ほど修理して航海再開、10月23日に五島列島に到着。朝廷で唐での顛末を報告。唐送使の来日は、632年の高 表仁以来150年ぶりのことで、朝廷は対応に右往左往したという。
11月5日に第1船と第2船、同時に出航。第2船は13日に薩摩国出水郡に無事到着。
第1船は嵐で遭難し船体は大破。大使代行・小野 石根、唐使・趙 宝英ら死亡。同船に乗っていた大伴 継人や羽栗 翼、藤原 清河の娘・喜娘ら40名は船の残骸にしがみついて漂流。肥前国天草郡(現在の鹿児島県出水郡)に漂着し帰京。
第4船の海上 三狩らは楚州から出帆するが、耽羅島(済州島)に流れ着き、略奪され船を留置された。録事・韓 国源ら40余名は船ごと島からの脱出に成功し、同年11月に薩摩国へ到着した。
三狩は島に残されたが、日本からの要請を受けた新羅によって発見される。779年2月に大宰少監・下道 長人が遣新羅使に任ぜられ、同年7月に三狩は帰国。大神 末足らも同年3月に帰国。
佐伯 今毛人(大使)公卿。順風が吹かず中止、翌年には重病となり大使の任は果たせず。
大伴 益立、藤原 鷹取(副使)出航できず解任。
小野 石根(持節副使・大使代行)今毛人の代わりに大使となる。
大神 末足(副使)大伴 益立に代り副使となるが、帰路で遭難し没する。
海上 三狩(判官)皇族・貴族。三狩王を称したがのち臣籍降下(海上真人姓)。
大伴 継人(判官)貴族。喜娘ら40数名と帰還。後に藤原種継暗殺の罪で処刑さる。
小野 滋野(判官)貴族。左京大夫・小野竹良の子。
下道 長人(判官)帰国したのち遣新羅使として三狩らを迎えた。
羽栗 翼(録事→准判官)唐の新しい暦、宝応五紀暦経を持ち帰り朝廷に献上した。
上毛野 大川(録事)後に石川名足と共に称徳・光仁朝の事業を編集し20巻に纏めた。
韓国 源 (録事)物部氏の末裔という。後に高原と姓を改めた。
ある意味、佐伯 今毛人は辞めて正解だったのかな?
乗るとしたら第1船だっただろうから、
漂流したら年齢的にも厳しかったかもね。
そんななか幸運のもちぬし羽栗 翼は、なんとか帰還。
藤原 清河の娘・喜娘も父に代わりを帰国を果たしました。
羽栗 翼は薬学にも通じていて、
晩年は桓武天皇に仕えたそうだ。
桓武天皇ってことは、平安京で過ごしていたんだね~。
よかったよかった♪
第17回 出国780年 帰国781年 南路
船二艘を安芸国で建造し、前回来日した唐使・孫 興進を送る。
通常の朝貢ではないので時期が良かったのか南路でも無事帰国。
布勢 清直(送唐客使)、甘南備 清野(判官)、多治比 浜成(判官)
まとめ
途中ですが、平安時代に変わりますし、続きは次回に!
なんでも第18回は話が長くなりそうなのだとか・・・。
次回、第18回遣唐使では、と~んでもないことが!!
鉄腕ダッシュ的な感じか(笑)
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