【人名】吉備 真備

吉備真備絵:『皇国二十四功 吉備大臣』月岡芳年作

【人名】
吉備 真備(きび の まきび)

奈良時代の公卿・学者。元の名は下道 真備しもつみちのまきび。下道氏(下道朝臣)は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族。姓は下道朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道 圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲等は勲二等。

名 前

別称:吉備大臣

生没年

生 年:695年(持統天皇9年)
没 年:775年11月3日(宝亀6年10月2日)

親 族

父  :下道 圀勝
母  :楊貴氏やぎしまたは倭海直男足娘・髪長支姫

配偶者:不明

子  :由利(由利子)、泉、与智麻呂、書足、稲万呂、真勝

兄弟姉妹:乙吉備、直事、廣

略 歴

695年(持統天皇9年)右衛士少尉・下道 圀勝の子。備中国下道郡(現在の岡山県倉敷市真備町)出身。

716年(霊亀2年)遣唐留学生となる。

717年(養老元年)阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐した。唐にて学ぶこと18年。

735年(天平7年)玄昉と同船で帰路に就くも種子島に漂着するが、多くの典籍を携えて帰朝した。唐では経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などを幅広く学び、帰朝時には経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦経』1巻、『大衍暦立成』12巻)、日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管・鉄如方響・写律管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し、『東観漢記』をもたらした。

同年 帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、従八位下から一挙に10階昇進して正六位下。

736年(天平8年)外従五位下

737年(天平9年)従五位上に昇叙と、急速に昇進する。

738年(翌天平10年)橘諸兄が右大臣に任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した玄昉と共に重用され、真備は右衛士督を兼ねた。

739年(天平11年)8月、母を葬る。

740年(天平12年)真備と玄昉を除かんとして藤原広嗣が大宰府で反乱を起こす(藤原広嗣の乱)。

741年(天平13年)東宮学士として皇太子・阿倍内親王(後の孝謙天皇・称徳天皇)に『漢書』や『礼記』を教授した。

743年(天平15年)従四位下・春宮大夫兼春宮学士に叙任。
同年8月 孝謙天皇が即位して以降、藤原仲麻呂が権を握り、真備や玄昉、諸兄と対立する。玄昉は745年(天平17年)筑紫観世音寺別当に左遷され、翌年に同地で没した。

746年(天平18年)吉備朝臣の姓を賜与。

747年(天平19年)右京大夫に転じる。

749年(天平勝宝元年)従四位上に昇った。

750年(天平勝宝2年)格下の官かつ地方官である筑前守、次いで肥前守に左遷される。

751年(天平勝宝3年)遣唐副使に任命される。

752年(天平勝宝4年)に再び危険な航海を経て入唐。同地では阿倍 仲麻呂と再会する。

753年(天平勝宝5年)帰国の途に就くも、鑑真と同じく屋久島へ漂着、さらに紀伊国太地に漂着後、無事に帰朝する。帰朝後も中央政界での活躍は許されず。

754年(翌天平勝宝6年)正四位下・大宰大弐に叙任されて九州に下向する。

756年(天平勝宝8歳)新羅に対する防衛のため筑前国に怡土城を築く。

758年(天平宝字2年)大宰府で唐での安禄山の乱に備えるよう勅を受けた。その後、暦学が認められて、儀鳳暦に替えて大衍暦が採用された。

764年(天平宝字8年)造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京した。同年に発生した藤原仲麻呂の乱において、緊急に従三位に昇叙され、中衛大将として追討軍を指揮して、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、仲麻呂は戦死した。

765年(翌天平神護元年)勲二等を授けられた。

766年(翌天平神護2年)称徳天皇(孝謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となり、同年の藤原真楯薨去に伴い大納言に、次いで従二位・右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手と共に政治を執った。これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでなったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。

770年(神護景雲4年)称徳天皇が崩じた際には、娘(妹)の由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した。『水鏡』など後世の史書や物語では、後継の天皇候補として文室浄三および文室大市を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆息したという。ただし、この皇嗣をめぐる話は『続日本紀』には認められず、この際の藤原百川の暗躍を含めて後世の誤伝あるいは作り話とする説が強い。

光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの辞任を許し、右大臣の職は慰留した。

771年(宝亀2年)再び辞職を願い出て許された。
それ以後の生活については何も伝わっておらず。

宝亀6年(775年)10月2日薨去。享年80。最終官位は正二位前右大臣。
奈良市内にある奈良教育大学の構内には真備の墓と伝えられる吉備塚(吉備塚古墳)がある。

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