絵:聖徳太子勝鬘経講讃図(蘇我馬子とされる部分)厩戸王が勝鬘経、法華経などを推古天皇に講じ、深く感動された天皇より播磨国の水田を賜り、これを法隆寺に寄進されたという。出典:Wikipedia
【人名】
蘇我 馬子(そが の うまこ)
飛鳥時代の豪族。政治家、貴族、大臣。
敏達天皇即位の際に大臣に就き、天皇4代に仕え、権勢を振るった。
排仏派を物部氏を滅ぼし、朝廷における地位を確立した。崇峻天皇立てたが、嫌われていると感じ暗殺したとされる。
推古天皇を立て、厩戸王とともに朝政をとり、天皇記、国記などを記した。法興寺(飛鳥寺)を造営し子の善徳臣を寺司とした。
邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。
記紀での蘇我氏の専横については、近年見直されてきている。
名 前
別称:蘇我馬子宿禰、蘇我馬子大臣、嶋大臣など
生没年
没 年:626年6月19日(推古天皇34年5月20日)
親 族
母 :不明
:蘇我倉麻呂
:蘇我蝦夷
:河上娘(崇峻天皇女御)
:刀自古郎女(厩戸王妃)
:法提郎媛(舒明天皇夫人)
:小姉君(欽明天皇妃)
:境部 摩理勢
:石寸名
略 歴
572年 敏達天皇の即位時に大臣となる。
584年 百済から来た鹿深臣と佐伯連から仏像ゆずり受け、司馬達等と池邊氷田を派遣し、播磨国で高句麗人の恵便を師とした。司馬達等の娘の嶋ら3人を出家させて尼とした。馬子は仏法に帰依し、石川宅に仏殿を造り、仏法を広めた。
585年2月 馬子は病になり、卜者に占わせたところ「父の稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。馬子は敏達天皇に奏上して仏法を祀る許可を得た。
同年3月 疫病がはやり多くの死者を出した。排仏派の物部守屋と中臣勝海が「蕃神を信奉したために疫病が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺に向かい、仏殿を破壊し、仏像を海に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏教信者を罵倒し、三人の尼僧を差し出すよう命じた。馬子は尼僧を差し出し、守屋は全裸にして縛り上げ、尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病気になった。人々は「仏像を焼いた罪である」と言った。
同年6月 馬子は病気が治らず、奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子に対してのみ許可し、三人の尼僧を返した。馬子は三人の尼僧を拝み、新たに寺を造り、仏像を迎えて供養した。
同年8月、敏達天皇が崩御。葬儀を行う殯宮で馬子と守屋は互いに罵倒した。
守屋「(長い刀を差して弔辞を読む小柄な馬子へ)まるで矢に射られた雀のようだ」
馬子「(緊張で体を震わせながら弔辞を読む守屋へ)鈴を付けたらさぞ面白かろう」
用明天皇(欽明天皇の皇子、母は馬子の姉の堅塩媛)が即位したが、用明天皇の異母弟の穴穂部皇子は不満を抱いた。穴穂部皇子は守屋と結び、先帝・敏達天皇の寵臣三輪逆を殺害させた。
587年 用明天皇は病になり、仏法を信仰することを欲し群臣に諮った。
守屋と中臣勝海は反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に僧の豊国をつれて来させた。守屋は怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知り、河内国へ退いた。
同年6月 用明天皇が崩御すると、守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしたが、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后)を奉じて穴穂部皇子を殺害した。
同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすことを決め、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵した。馬子軍は河内国渋川郡の守屋の居所を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に抵抗し、馬子軍を三度撃退した。厩戸皇子が四天王像を彫り戦勝祈願し、馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。馬子軍は奮起して攻勢をかけ、迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利した。
同年8月、馬子は泊瀬部皇子を即位させ、崇峻天皇とした。炊屋姫は皇太后となった。
同年11月 馬子は東国から調があると偽って、東漢駒に崇峻天皇を殺害させた。その後、東漢駒は馬子の娘の河上娘を奪って妻とした。怒った馬子は東漢駒を殺害させた。
皇太后であった炊屋姫を即位させ、初の女帝である推古天皇とした。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となった。厩戸皇子と合議して政治運営し、仏教を奨励し、冠位十二階や十七条憲法を定めて中央集権化を進め、遣隋使を派遣して隋の社会制度や学問を輸入した。
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