【人名】厩戸王・皇子/聖徳太子

絹本著色聖徳太子孝養像図
絹本著色聖徳太子孝養像図(鎌倉時代) 太子が十六歳の時、父・用明天皇の御悩平癒を願って、柄香炉を捧げて東方薬師へ祈るさまを描いたという。 出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

【人名】
厩戸王・皇子(うまやどのおう・みこ)/聖徳太子(しょうとくたいし)

厩戸王・皇子(聖徳太子)は、飛鳥時代の皇族(皇太子)、政治家。推古天皇のもと、蘇我馬子と政治を行い、遣隋使を派遣し、中国の文化を学び「冠位十二階」、「十七条憲法」を定めるなど天皇中心とした中央集権国家の確立を図った。仏教や儒教を取り入れ神道とともに信仰し興隆につとめた。

名 前

諡号:聖徳太子
全名:厩戸
別称:上宮かみつみや東宮みこのみや豊聡耳とよとみみ(聖徳、太子、皇太子、王、法王、尊、命)など多数

生没年

生 年:574年2月7日(敏達天皇3年1月1日)
没 年:622年4月8日(推古天皇30年2月22日)

親 族

父  :橘豊日皇子たちばなのとよひのみこ/用明天皇(第31代天皇)
母  :穴穂部間人皇女あなほべのはしひとのひめみこ(欽明天皇皇女、蘇我稲目の娘)

配偶者:菟道貝蛸皇女うじのかいたこのひめ(敏達天皇・推古天皇皇女)
   :刀自古郎女とじこのいらつめ(蘇我馬子・物部氏の娘)
   :橘大郎女たちいばなのおおいらつめ尾張皇子おわりのみこの娘)
   :菩岐岐美郎女ほききみのいらつめ膳傾子かしわでのかたぶこの娘)

子  :山代大兄王やましろのおおえのみこ(母:刀自古郎女)
   :財王たからのみこ
   :日置王ひおきのみこ
   :片岡女王
かたおかのひめみこ

   :白髪部王しらかべのみこ(母:橘大郎女)
   :手島女王てしまのひめみこ
   :舂米女王つきしねのひめみこ(母:菩岐岐美郎女)
   :泊瀬仲王はつかせのなかのみこ
   :久波太女王くはたのひめみこ
   :波止利女王はとりのひめみこ
   :三枝王さきくさのみこ
   :伊止志古王いとしこのみこ
   :麻呂古王まろこのみこ
   :馬屋古女王うまやこのひめみこ

兄弟姉妹:来目皇子くるめのみこ(同母:)
    :殖栗皇子えくりのみこ
    :茨田皇子まんだのみこ
    :田目皇子ためのみこ(異母:石寸名いしきな
    :麻呂子皇子まろこのみこ(異母:葛城広子かつらぎのひろこ
    :酢香手姫皇女すかてひめのひめみこ(異母:葛城広子)

略 歴

574年 橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれた、第二皇子。
厩戸の命名については、さまざまな説がある。厩戸前にて出生した。母の実家の馬子屋敷に因んだ。生誕地・近辺の地名。生年の干支が午年生まれなど。
585年 父、橘豊日皇子が即位(用明天皇)。
仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が激しく対立(百済からの渡来系東漢氏やまとのあやうじと蘇我氏は深く結びついていたため)
587年 用明天皇崩御。皇位争いになり、馬子は守屋が推す穴穂部皇子を誅殺。守屋討伐を起こす。厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり戦勝を祈願した(勝利すれば仏塔をつくると誓う)守屋は迹見赤檮とみのいちいに射殺され、物部氏は没落していった。

同年、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)が、政治の実権は馬子が持ち、崇峻天皇は馬子と対立した。

592年 馬子は崇峻天皇を暗殺。豊御食炊屋姫とよみけかしきやひめを擁立して皇位につけた(推古天皇)。厩戸皇子は皇太子(摂政)となり、馬子と共に補佐した。

戦勝祈願の誓いを守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。

594年 三宝興隆の詔を発した。(三宝とは、仏・法・僧)
595年 高句麗の僧、慧慈えじが渡来し、仏教の師となる。
百済の僧、慧聡えそうとともに、三宝の棟梁と称された。
597年 吉士磐金きしのいわかねを新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈った。
600年 新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。
601年 斑鳩宮いかるがのみやを造営(現代の奈良県生駒郡斑鳩町)
602年 新羅征討の軍を起こす。同母弟・来目皇子が渡海準備中に死去。後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、妻の死を理由に遠征は中止となった。
603年 冠位十二階を定めた。氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用(大王の中央集権を強める目的)
604年 十七条憲法を制定した。豪族たちに臣下としての心構えを示し、大王に従い、仏法を敬うことを強調。
605年 諸王諸臣に、褶の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。
 607年 屯倉を各国に設置する。高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝うなてを掘った(水路や灌漑を行った)

小野妹子おののいもこ鞍作福利くらつくりのふくりを使者とし随に国書を送った。

612年 百済の楽人、味摩之みましが伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせた。
613年 掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。
日本最古の官道(現代の竹内街道)
614年 犬上御田鍬らを隋へ派遣する。最後の遣隋使となる。
 615年 法華経、勝鬘経、維摩経の三経の注釈書、三経義疏を著した。
620年 馬子と議して国記、天皇記、臣連伴造国造百八十部并公民等本記を編纂。
622年 斑鳩宮で倒れ、妃・菩岐岐美郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日に亡くなった。享年49歳。

橘大郎女は推古天皇に願い出て、釆女に天寿国曼荼羅繍帳てんじゅこくまんだらしゅうちょうを作らせた。死を悼んで、死後に行ったとされる天寿国の様子を描かせたものと言われる。

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