【人名】蘇我入鹿

蘇我入鹿三国の調の儀式。表文を読み上げる石川麻呂に不審に思った入鹿がと問うと、天皇のお近くが畏れ多く、汗が出るのですと答えた。多武峯縁起絵巻 上巻之二(16世紀頃)より

【人名】
蘇我入鹿(そがのいるか)

蘇我入鹿そがのいるかは、飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷えみしの子。
青少年期は僧・旻に学問堂で学んだ秀才だったと言われている。大臣おおおみとして大和朝廷の有力者であったが、乙巳の変いっしのへんにおいて討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなった。

飛鳥板蓋宮の皇極天皇の御前。蘇我倉山田石川麻呂文は、上表文を読み上げながら震えて冷や汗をかいた。不審に思った入鹿に「何故震えている」と問われたが、石川麻呂は「帝の御前だからです」と答えた。

名 前

別称:林大臣、鞍作大郎

生没年

生 年:611年(推古天皇19年)
没 年:645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)

親 族

父  :蘇我蝦夷
母  :不明

配偶者:不明

子  :不明

兄弟姉妹:不明

略 歴

611年 蝦夷蝦夷の子として生まれる。母、出生地は不明。
青年時代の入鹿は、中臣鎌足らと共に唐から帰国した新漢人旻いまきのあやひとのみんの学堂に学んだが、旻からは、私の堂で、蘇我太郎に及ぶものはいないと評価された。
626年 蘇我馬子が死に、父蝦夷がかわって大臣となった。
628年 推古天皇が後嗣を指名することなく崩御した。
有力な皇位継承権者には田村皇子と山背大兄王がいた。血統的に近いが有能な山背大兄王(上宮王家=聖徳太子の家系)が皇位につきが勢力を持つことを嫌った、蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢を滅ぼして、田村皇子(舒明天皇)を即位させた。
641年 舒明天皇は崩御。642年 皇后であった宝皇女が即位した(皇極天皇)。蘇我氏の専横は更に甚だしくなった。入鹿自ら国政を行っていて、権力は父をしのいだ。

蝦夷と入鹿は、自分達の陵墓の築造のために民を動員、聖徳太子の一族の領民も動員されたため、太子の娘の大娘姫王はこれを嘆き抗議した。

643年 父の独断で紫冠を授けられ大臣となった。

戴冠から一か月後、国政を天皇中心に改革せんとする気運が強まっていると考え、古人大兄皇子を天皇につけようと図り、邪魔になる山背大兄王ら上宮王家の人々を自殺に追い込んだ。

※藤氏家伝には、上宮王家討伐については皇極天皇即位に関して山背大兄王が謀反を起こす恐れがあるため他の皇族と謀って殺害したと記載がある。

644年 甘樫丘に邸宅を築き、これをそれぞれ「上の宮門みかど」「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。また、畝傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行した。これらの政策により、入鹿は実質最高権力者としての地位を固めた。
645年7月10日 乙巳の変。古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らに、飛鳥板蓋宮の大極殿において皇極天皇の御前で殺害された。

従兄弟に当たる蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み上げていた際、肩を震わせていた事に不審がっていた所を中大兄皇子と佐伯子麻呂に斬り付けられ、天皇に無罪を訴えるも、あえなく止めを刺され、雨が降る外に遺体を打ち捨てられたという。

645年7月11日 父、蝦夷は舘に火を放ち自殺した。この際に「天皇記」、「国記」が焼けてしまった(「国記」は燃失する前に中大兄皇子のもとに渡ったとされているが、現存していない)
こうして蘇我本宗家は滅び、歴史の表舞台から姿を消していった。

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