【人名】蘇我稲目

豊浦宮跡

豊浦宮跡伝承地 写真:Takanuka CC-BY 3.0をトリミング



写真:豊浦宮跡伝承地(向原寺南方にある宮)欽明天皇へ百済の聖明王が献上した金銅の釈迦像を蘇我稲目がたまわり、向原の家を浄めて向原寺とした。日本初の寺ともされている。

【人名】
蘇我 稲目(そが の いなめ)

古墳時代の豪族。大臣おおおみ。蘇我馬子ら4男3女の父。娘の堅塩媛きたしひめ小姉君おあねのきみを欽明天皇の妃として、天皇の外祖父となり、蘇我氏の繁栄の礎となった人物。
仏教の受容問題では権力争いも重なり、物部氏は激しく争った。
吉備に屯倉をつくり、戸籍をつくらせた(戸籍制度の先駆け)

蘇我氏は、天皇5代に仕えたという伝説上の忠臣、「武内宿禰たけのうちのすくね」を祖とするとされている。

名 前

全名:蘇我 稲目
別称:蘇我稲目宿禰大臣、蘇我宿禰大臣、蘇我稲目宿禰など

生没年

生 年:506年ごろ(敏達天皇3年1月1日)
没 年:570年3月22日( 欽明天皇32年3月1日)

親 族

父  :蘇我 高麗そがのこま
母  :不明
配偶者:葛城氏の娘と推定
   :【紀】美女媛おみなひめ(高句麗宮の女)
   :【紀】吾田子あたこ(美女媛の侍女)
子  :堅塩媛きたしひめ(欽明天皇妃)
   :蘇我 馬子そがのうまこ
   :小姉君おあねのきみ(欽明天皇妃)

   :境部 摩理勢
さかいべのまりせ

   :石寸名いしきな(用明天皇嬪)
兄弟姉妹:不明

略 歴

536年 宣化天皇即位。大臣となる。
同年、天皇の命により凶作に備えるため尾張国の屯倉の籾を都に運んだ。
540年 欽明天皇が即位。引き続き大臣となる。
娘の堅塩媛と小姉君を天皇の妃とした。皇室外戚となり、ヤマト政権での地位を確保するとともに、蘇我氏4代に続く全盛の礎をつくった。

堅塩媛は7男6女を産み。大兄皇子(用明天皇)と炊屋姫(推古天皇)が即位。小姉君は4男1女を産み、泊瀬部皇子(崇峻天皇)が即位。

538年(【紀】552年) 仏教公伝。百済の聖王(聖明王)の使者が仏像と経論数巻を献じ、上表して仏教の功徳をたたえた。

天皇は仏像を礼拝することの可否を群臣に求めた。
蘇我稲目は諸国では仏像を礼拝していると賛成。
物部尾輿と中臣鎌子(後の鎌足)は国神の怒りをまねくと反対。

そこで天皇は稲目に仏像を授けて試みで礼拝することを許した。
稲目は向原の家を寺として仏像を安置して礼拝した。

556年【紀】備前きびのみちのくに児嶋郡こじまのこおり屯倉みやけを設置し、葛城山田直瑞子かずらきのやまだのあたいみつこを屯倉を管理する官職「田令たつかい」に任じた。
また百済人の田部たべ(耕作人)を置いたとある。
569年 白猪屯倉しらいのみやけ田部たべ丁籍よほろのふみたを検定し田戸たべとした。王辰爾おうじんにの甥の胆津いつに「白猪史しらいのふひと」のかばねを与え田令たつかいとし、瑞子の副官とした。(直轄地の農民は百済の渡来人が多く、戸籍を作る必要があった)
570年 稲目死去。
疫病や天災が起こり、尾輿と鎌子は蕃神礼拝のためだと、仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許した。仏像は難波の堀江に流され、寺には火をかけられた。

仏教が排除されたわけではなく、天皇は海中から樟木を引き上げて仏像2体を造らせた。仏教受容問題は、決着はつかず、子の蘇我馬子、物部守屋の代に引き継がれた。

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