618年に隋が滅び、唐が建国されました。
日本はまだ飛鳥時代。朝廷は遣隋使に引き続き大陸の先進国「唐」から様々なことを学ぶ必要があり、国家プロジェクトである「遣唐使」の継続を決定します。
唐への航海は危険を伴い、とくに白村江の戦い以来、新羅との関係が悪化したことから、比較的安全な朝鮮半島経由(北路)ではなく、東シナ海を直接横断する南路を通る必要があったので、遭難する船も多く、遣唐使は常に危険な航海となりました。
危険な航海を乗り越えてまでも
唐に使節を送る主な目的は4つ
2、最先端かつ国際色豊かな技術・文物を持ち帰った(天平文化)
3、官僚・僧が同行し人材育成・交流を行った。
4、国家仏教として鎮護国家を重視、仏像・経典の入手(奈良仏教)
もっとも唐の文献(旧唐書・新唐書)を読むと、
あくまで朝貢使という扱いみたいだね。
両国の目的が合致したからこそ、
遣唐使は200年以上も続いたんだろうね。
遣唐使は、630年からはじまり、838年までの約200年間も行われました。
その間、遣唐使の派遣決定は20回行われたといわれています(回数に関しては諸説あります)
894年、唐の混乱と日本文化の発達を理由として、遣唐使を中止します。
中止を決定をしたのは、あの菅原道真です。894年に戻そう遣唐使ですね。
遣唐使に選ばれた人(イケメン)たち
遣唐使の人選では、もちろん各分野での知識に秀でた人物が選ばれています。とくに、使節の代表である大使や副使は、いまでいう高級官僚クラスの人物が多く選出されています。
そんな中で、選ばれる基準のひとつとされているのは、礼儀正しい立ち振る舞いのできる容姿端麗な人物であること。
つまり当時のイケメンが遣唐使の条件だったわけです。有名な人物を何人かご紹介します。
阿倍 仲麻呂(あべ の なかまろ)
孝元天皇の皇子大彦命を祖先とする皇別氏族。叔父は筑紫大宰帥(大宰府の長官)・阿倍比羅夫。父は中務大輔(宮内庁に近い役割の次官)・阿倍船守の長男と素晴らしい家柄。
若くして学才を発揮し、若干19歳で留学生として唐の都・長安に渡ります。最高学府・太学で学び、科挙のなかでも、最難関の進士科に合格したといわれています。この試験は、最盛期の競争率は約3000倍。合格者の平均年齢は30代半という試験を仲麻呂は20代で受かっています。
阿部仲麻呂は、小倉百人一首の歌人・阿部仲麻と同一人物。つまり和歌はもちろんとして漢詩も秀でていました。唐の朝廷では、玄宗皇帝に仕え、主に文学の役職を務めたことから、李白・王維・儲光羲ら有名な詩人とも親交がありました。
最終的には、皇帝と直接話せるほどの官位の皇帝の側近となります。仲麻呂は、老いた両親のことを心配し、日本に帰りたかったようですが、皇帝のお気に入りとなり機会を逸してしまいます。
天の原振りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも
(天をみると、はるか昔に祈りを捧げた、春日大社のある三笠山にのぼる月と同じだ)
秘書晁監の日本国に還るを送る
積水 極むべからず、安んぞ 滄海の東を知らん。
九州 何れの処か遠き、万里 空に乗ずるが若し。
国 に向い惟だ日を看、帰帆 但だ風に信す。
鰲身天に映じて黒く、魚眼波を射て紅なり。
郷樹 扶桑の外、主人 孤島の中。
別離 方に域を異にす、音信若為ぞ通ぜん。
大海原は見極めようもなく広いのに、海の東がどうして知れるだろうか。
この世界で最も遠いのだから、万里の道は、空を旅してるようなもの。
国に向かうには東に登る日をみて、帰路はただ風向きに任すしかない。
伝説の大海亀は背は黒々と映え、怪魚の眼光は赤く波を射ることだろう。
故郷の神木は、扶桑の向こうにあり、あなたの主君はその孤島にいる。
この別離で遥かな異郷に別れてしまう、便りをどのようにして届けようか。
皮肉なことに、これほど別れを惜しんだのですが、帰国船は難破し帰国は果たせず、このあと長安で一生を終えます。一時期は死んだとの情報があって、あの李白も嘆きの詩を送っています。
王維が仲麻呂に送った詩は、小野不由美さんの十二国記、
魔性の子 十二国記 0 (新潮文庫)にも使われています。
知らずに十二国記を読み始めたら、
見覚えのある詩が出てきて驚いたよ。
まさかの遣唐使つながりとは!
藤原 清河(ふじわら の きよかわ)
藤原北家の祖である右大臣・藤原 房前の四男。つまり藤原不比等の孫となります。家柄からして出世も早く、孝謙天皇の即位の際に参議(公卿)となります。幸か不幸か、その翌年の750年に遣唐大使を任じられ、752年に大伴古麻呂・吉備真備を副使として出国します。
清河は長安で皇帝玄宗に謁見し、君子人なりと称賛されたという(君子人とは、国家を任せるほどの器、大事に臨んでひるまない、人格者であるといった意味)。
753年に、前述の仲麻呂らとともに帰路につき阿児奈波島(沖縄本島)まで到達。しかし船が座礁し、唐南方の驩州(ベトナム北部)に漂着し、ほとんどの船員が殺害され船も壊されてしまう。清河と仲麻呂は、なんとか唐へ戻り、清河は名を河清と改め、仲麻呂とともに唐朝に仕えることとなった。
その後も、唐は安史の乱(都・長安、洛陽が陥落)の混乱により、帰国が許されなかった。親族に向け帰国を望む書簡を送っているが、度重なる派遣の中止などが続き、25年後の778年に遣唐使が入唐した際には、すでに亡くなっていました。
そこで遣唐使たちは、河清と唐人の娘「喜娘」とともに帰路につきます。しかし時化で船がバラバラになり沈没、船の舳につかまり6日間の漂流の末に帰国します。
船出にあたり藤原氏一族は、春日の地に集まり旅の無事を祈り神を祭りました。
そのときの詠んだ詩が万葉集に残っています。
大船に 真楫しじ貫き この吾子を 唐国へ遣る 斎へ神たち
大船に櫓を揃えて、愛しい我が子を、唐国へ送ります。神々よ守って下さい。
春日野に 斎く三諸の 梅の花 栄えてあり待て 還り来るまで
春日野で祭る社の梅の花よ。私が帰るまで、咲き栄えて待っていよ。
吉備 真備(きび の まきび)
公卿・学者。元の名は下道 真備。吉備地方(岡山県)の豪族出身。
716年に、ずばぬけて優秀な成績だった真備は、留学生として唐に渡り18年間、経書(儒教などの経典)と史書(歴史書)のほか、天文学(陰陽道)・音楽・兵学などを幅広く学びます。
しかし、743年に孝謙天皇が即位すると、藤原仲麻呂が実権を握り対立し、真備は地方に左遷されてしまいます。746年には吉備朝臣の姓を賜与されますが、751年に遣唐副使として危険な任を受け、なんとか帰国しますが、しばらく不遇が続きます。
皇帝玄宗は、遣唐使に友好的だったようだよね。
三人の人物も、皇帝とあっているわけか~。
皇帝玄宗は、前半は善政をしていたみたいだけど、
傾国の美女「楊貴妃」にうつつを抜かしてからは、
評価が分かれるところだね。
遣唐使船は実は優秀
危険な航海を乗り越えのタイトルとは相反するようですが、当時としては遣唐使船自体は優秀だったと考えられています。船体は中国や半島の技術者を呼び設計・監督をしたと思われます。では、なぜ危険な航海になってしまったのでしょうか?
遣唐使船のことも含め調べてみました。
大きさ
遣唐使船は、過去の同世代の船の資料などから推定すると、長さ24~30m、幅6~9m、排水量は200~300トンと考えられています。
構造
写真のように、2本の帆柱に本帆・弥帆として網代帆(竹編んだ帆)を張っていました。船底に平らで現代の船のように竜骨(キールといいます)のない構造です。左右には櫓をこぐ櫓棚があり、櫓棚の下には、波よけと復元力を増すための竹束があります(補修にも使われたと思われます)前の突き出た部分には、錨が巻いてあります。
※タイトル写真の復元船は、竜骨がありますが、平安時代のものをモデルにしたそうです。(構造的に許可が下りなかったのだとか)
性能
遣唐使船の網代帆は開閉が簡単で順風・横風には、優れた帆走性をもっていました。一枚の帆全体を帆柱頂部から吊り下げることによって、横風に対する安定性が同時代の竜骨帆船と比べ高く突風が近づいた時も素早く帆を下ろすことができました。無風時の場合は櫓漕ぎを行うため、多くの漕ぎ手も乗船しました。船底が平らなため、喫水の浅い海での航行に便利で、耐波性も優れていました。
なぜ遭難をしたの?
特に後期の遣唐使船は、多くが風雨に見舞われ、中には遭難する船もある命懸けの航海で、無事帰還できたのは、約8割といわれています。当時の技術的に、この数字を低いととるかですが、実は条件が悪い割には良いのではという印象もあります。ともあれ理由は以下のようです。
・乗員と積載物資が多すぎた。前期100人に対して、後期は150人以上乗船。
・時期が悪かった。朝貢を12月に届ける必要から、気象条件の悪い6~7月ごろに出航。
・沿岸航法の北路から、南路になり遭難が頻繁。
遣唐使の主な航路と情勢
北路
遣唐使の初期では主に北路が使われました。沿岸航法での必要に応じて寄港もできるので時間はかかりますが、安全な航海ができました。これは、友好国の百済が朝鮮半島の西側にあったため、対馬を経て朝鮮半島の南から岸沿いに北上。山東半島(登州)から上陸して都「長安」を目指しました。前期にも南島路を通ったこともあるようですが、遭難しています。
南路(南島路)
660年百済は唐・新羅連合軍に敗れ滅亡します(百済の役)
その後、百済復興のために663年に白村江の戦いを行いますが、唐軍(新羅も加勢)と対峙し大敗します。そのような出来事から、唐との関係改善を目的として遣唐使を送っています。すでに新羅と唐は同盟を組んでいたのか、唐としては高句麗攻略の邪魔だったという説もあります。
新羅との関係が悪化した関係から、航路は南路に変わります。、博多から東シナ海を横断し、南方の楚州や杭州から陸路で移動しました。前期の北路と比べると、危険度は格段に増しました。
特に、帰路の際に漂着することが多く、五島列島沿いに帰国できれば良い方で、はるか南方の崑崙国(現代のベトナム南方)まで漂着したこともありました(現地では戦闘となり船員の多くが殺されてしまいます)
渤海路
日本海を挟んだ北方の渤海国は698年に建国された国。当初は新羅・唐をけん制する意味合いの軍事的同盟でしたが、唐との関係が落ち着くと、文化的交流や商業的を含めた友好国となりました。実際「遣渤海使」も14回ほど行われていて、唐の情報を伝えてもらったり、遭難した遣唐使の救出をしてもらったこともあるようです。そのようなことで、遣唐使たちはときには、唐から陸路を通り渤海から帰国したこともありました。
パート1まとめ
今回は、遣唐使のポイントと、遣唐使船のつくり、なぜ危険な航海となったのか?
航路についても簡単にお伝えしました。
遣唐使はどんな人物だったのか?
優秀(イケメン)すぎて、皇帝のお気に入りとなり唐でそのまま帰化することも。
なんだかメジャーリーガーを思い浮かべました(笑)
まぁイケメンといっても現代の基準とは違うから・・・。
皇帝玄宗は、お気に入りの遣唐使の肖像画を描かせたそうだけど、
残念ながら見ることはできないのかな。
遣唐使が、危険な任務となってしまった主な理由とは。
・新羅との関係悪化のため危険な南路を通らなければならなくなった。
・唐への朝貢の時期があるので、条件の非常に悪い、夏に出航、真冬に帰国となった。
次回パート2では、全20回といわれる遣唐使の各回の出来事をお伝えしようと思います。
コメント