今回は、遣唐使たちの各回の苦難をお伝えしたいと思います。
遣唐使は、630年から894年まで200年以上も続きました。
カウントについては、諸説ありますが、多い説では20回といわれています。
さすがに、少々長くなりますので、10回ずつの前・後編に分けてお伝えいたします。
そういったわけで、今回は第1回から第10回までのお話ですが、各回とも遭難や何かしらのトラブルが起こっています。なにごともなく無事に帰ってきたほうが少ないかもしれません。
第1回の遣唐使は630年。
630年て渡る遣唐使ですね。
確かに遣唐使が出国するのはいつも真夏だから。
船の中は蒸してそうだけど(笑)
薬師 恵日という人物がいます。彼は、医術を学ぶ留学生として、608年(推古天皇16年)第3回目の遣隋使で小野妹子に随行します。15年間の留学中には、618年の随の滅亡・唐の建国も経験しました。
623年(推古天皇31年)、恵日は一緒に医術を学んだ倭漢 福因や学問僧・恵斉・恵光、新羅使・奈末智洗爾とともに日本に帰国します。
帰国後した恵日は舒明天皇へ
「かの大唐国は,法式備り定れる珍の国なり。常にかよふべし」と奏上しました。
恵日は律令を学ぶために唐と交流をするべきですと奏上したわけです。
遣唐使の歴史(前編)
第1回 出国630年 帰国632年 北路
614年に最後の遣隋使として渡航経験のある、犬上 御田鍬が栄えある第1回遣唐使の大使として任命されました。無事、631年に唐の第二代皇帝・太宗と謁見し、翌年に無事帰国します。
朝貢は本来毎年行うのですが、遠いことから毎年の朝貢を免除されました。
もっとも、もともと毎年は行ってない(行けない)ので、公式にということなのかと思います。
帰国時には送使として唐の官吏・高 表仁が同行していますが、儀礼の問題(おそらく上下関係など)で問題が起こり、皇帝から預かった朝命を読み上げずに帰国したため、表仁は帰国後非難を受けたそうです(新唐書)遣隋使の時代に、少なくとも倭国としては隋と対等な関係と考えていたのでしょうから、こういったことも起こりうると思います。
ちなみに日本書紀では、もめごとなどは一切無かったことになっています。表仁は、手厚い接待の礼をして帰ったと記されています。
犬上 御田鍬(大使)景行天皇庶皇子の子孫とされる。近江国犬上郡(滋賀県)を拠点とする豪族。
薬師 恵日(副使)百済から帰化した医師。唐と交流するべきと舒明天皇に伝えたという。
高 表仁 唐の官吏として来日した。
旻(僧)608年に遣隋使・小野妹子と隋に渡り24年後に帰国。蘇我入鹿・中臣鎌足の師。
勝 鳥養、霊雲(学僧)帰国。渡来人系氏族らしいが詳細不明。
第2回 出国653年 帰国654年 往路・南路(南航路) 復路・北路
はやくも2回目にして、大きな事故がおこってしまいます。南路(南島コース)を2隻で出国しますが、第2船が薩摩沖で遭難し100余名が死亡・行方不明となります。6日間の漂流したのち、5名だけが生き残り竹島に漂着し、竹を伐採していかだを作り帰国。
第1船は苦難を乗り越え、唐に到着し皇帝に謁見を果たし、翌年新羅・百済の送使と共に帰還。
第1船
吉士 長丹(大使)吉士一族は外交事務で多く活躍。摂津国皇別とされている。
吉士 駒(副使)摂津嶋下郡吉志部村出身(現在の大阪府吹田市岸部町)を本拠とする豪族。
道昭(留学僧)船連の子で、玄奘三蔵に師事して法相教学を学んだ。
定恵(留学僧)中臣鎌足の長男。不比等の兄。出家前の名は中臣真人。
道観(留学僧)のちの粟田 真人。
安達(留学僧)神祇伯・中臣大島の兄。
坂合部 磐積、巨勢 薬、氷 老(学生)、韓智興、趙元宝(詳細不明)
第2船
高田 根麻呂(大使)、掃守 小麻呂(副使)
第3回 出国654年 帰国655年 北路
高向は、長年唐での留学経験もある人材で、大使より格上の押使として派遣。長安にて高宗と謁見した。つまり重要な要件があったということになります。謁見の際には、日本の位置や神話を尋ねられたとされ、『旧唐書』にも倭国が瑪瑙を献上したとある。高向は、長安で病死し帰国は果たせなかった。
後の考察で、改めて国の位置や神話を尋ねられたのは、倭国と日本国は別の存在と認識された(させたかった)可能性があるのではないかと考えられている。
高向 玄理(押使)遣隋使時代に隋に渡り32年留学。国博士として活躍。河内長野市高向出身。
河辺 麻呂(大使)長安で皇帝高宗に謁見。地理や国が誕生した時の神の名前を解答したとある。
薬師 恵日(副使)2回目の渡航、書 麻呂(判官)
第4回 出国659年 帰国661年 南路(南航路)
非常にタイミングが悪く、翌年の660年に唐と新羅は連合して百済を攻め滅亡させます(百済の役)当然百済の同盟関係にある日本に動きが漏れてしまっては問題があるので、遣唐使たちは帰国を許されず幽閉されてしまいます。往路で南路を通っていることから、すでに軍事的緊張は高まっていたと考えられます。
往路でもトラブルが起きます。第1船が遭難し百済の南海の島「爾加委(現代の奄美大島東方の喜界島)」に漂着。略奪に遭い大使・坂合部石布が殺される。東漢長・坂合部稲積ら生き残った5人は島の船を奪って大陸に至り、役人に護送されて洛陽に運ばれた。第2船の津守らと再会し1年間の幽閉・拘留後帰国。
副使・津守らが乗る第2船は、無事到着し皇帝高宗に謁見。朝貢してくる国々の中で、倭の使節が最も勝れていると称賛をうけるが、事件が起きます。帰国した伊吉は「伊吉博德書」に今回の出来事を記している。
- 出火(謀反?)騒ぎが起き、従者・西漢 大麻呂らの讒言により韓智興は流罪になった。
- 伊吉の進言により他のメンバーは流罪を免れ、幽閉はされる。
- 百済王の一族が捕虜として連れて来られたのを目撃。百済滅亡の証人となった。
- 幽閉が解かれ帰国時に漂流。耽羅島(済州島)に着き、耽羅の王子らとともに帰国。
- 「倭客」と「我客」という文言があり、倭国≠日本ともとれるとの説も。
- 同じ一行に別の国があり裏切りにあったのか、はたまた皇族同士の争いか。
おそらく正直ベースで書いたと思われる、
伊吉博德書を日本書紀と比べると色々発見がありそうです。
都合の悪いことは、無かったことにしがちだもんね。
う~ん現代でも聞いたことがあるような(笑)
第1船
坂合部 磐鍬(大使)飛鳥時代の貴族。返礼使として656年に高句麗へ渡航経験あり。南海で没する。
東漢長 阿利麻 有力な漢人系氏族。東漢は大和地方出身とされる。
坂合部 稲積 詳細不明だが大使・磐鍬の縁者と推測。
第2船
津守 吉祥(副使)皇帝高宗に拝謁し賞賛を受けるが、百済の戦役等により幽閉される。
伊吉 博徳 中国系渡来氏族で周の宣王の末子尚父の子孫とされる。
韓智興 中国・日本の混血児。西漢・東漢草の主人。流罪となり668年に帰国。
西漢 大麻呂 遣唐使を讒言し一行は1年間幽閉される。
東漢草 足嶋 帰国の際に落雷で死亡とされる。
『住吉大社神代記』の原資料を、
津守吉祥が記したとする説もあるね。
これだけ遭難が危険な旅だと、
神や仏にもすがりたくなるよね。
第5回 出国665年 帰国667年 北路
唐使の劉徳高らを送迎と唐の第三代目皇帝・高宗の封禅の儀(即位式)への参列が目的とされる。唐の百済鎮将(旧百済占領軍)・劉 仁願が派遣した文官・司馬法聡と共に帰国した。白村江の戦い以降に筑紫一帯は唐の占領下にあった可能性もあるともいわれるが、その関係かもしれません。
守 大石(送唐客使)帰国せず。そのまま唐に留まったか、亡くなったか不明。
坂合部 磐積 帰国時は代表として留学僧だった第2回で同行した定恵とともに帰国。
吉士 岐彌、吉士 針間
第6回 出国667年 帰国668年 北路
前回来日した唐使の司馬法聡の熊津都督府(旧百済国の占領地)への送迎。
伊吉 博徳(送唐客使)、笠諸石(副使)
第7回 出国669年 帰国不明
河内 鯨(大使)唐に高句麗平定の祝賀を述べる。詳細不明。
第8回 出国702年 帰国704年 南路
粟田真人を執節使(大使より上位)として任じられ、702年に出国。文武天皇から初めて節刀を授けられた。このとき対外的に「日本」の国号をはじめて使用。首都(藤原京)を定めたこと、大宝律令を制定したことを示し、国としての体裁を上昇させ、白村江の戦い以来の正式な国交回復を目的とした。
粟田 真人(執節使)白村江の戦いで捕虜になっていた者を連れて五島列島福江島に漂着帰国。
坂合部大分(大使)残留し、次の遣唐使の帰国船に同行。
巨勢 邑治(副使)残留し、707年3月に帰国。
山上 憶良(少録)天皇の侍医を務めた憶仁の子。儒教や仏教など最新の学問を研鑽した。
垂水 広人(大通事)通訳
道慈(僧)三論に通じ仁王般若経を講ずる高僧100人から選ばれた。残留し718年帰国。
第9回 出国717年 帰国718年 南路
前回の倍以上の総勢557人。使節の主だった者は全員無時に大宰府に帰還。道慈も帰国。帰国した一同が唐で与えられた朝服で天皇に拝謁したという。
多治比 縣守(押使)公卿。左大臣・多治比嶋の子。
大伴 山守(大使)貴族。右大臣・大伴長徳の子。
藤原 馬養(副使)藤原四兄弟(不比等の三男)の一人。入唐の際に宇合と改名。
阿倍 仲麻呂(留学生)阿倍比羅夫の孫。残留し唐朝で高官となるが帰国はできず死亡。
吉備 真備(留学生)唐に18年間残留し学者となり735年帰国。後に大臣にまで出世。
玄昉(学問僧)唐に18年間残留し法相を学ぶ。735年5千巻の経と仏像を携えて帰国。
井 真成(留学生)残留し消息不明。日本人留学生が734年に没したとの墓誌が見つかる。
羽栗 吉麻呂(阿部仲麻呂の従者)残留し現地で結婚。翼・翔をもうける。734年帰国。
2004年に中国の西安で行方不明となった留学生・真成の墓誌が発見され話題となりました。墓誌には次のように記してありました。
贈尚衣奉御井公墓誌文并序
公姓井字眞成國號日本才稱天縱故能
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六皇上
■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
■卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水
■原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
■兮頽暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶
歸于故鄕
(■は判別できない部分を表します)
姓は井、字は真成。国は日本と号す。生まれつき才能があった。
国命で遠方に馳せ、努力し学問を修め、官となった。
朝廷に仕え、活躍ぶりは抜きんでていた。
急に病気になり、開元22年(734年)の1月に官舎で亡くなった。
皇帝は大変残念に思い、特別な扱いで埋葬することにした。
体はこの地に埋葬されたが、魂は故郷に帰るにちがいない。
墓誌は、唐へ渡った真成の軌跡を辿るとともに、
唐で日本という呼び名が使われていたことでも話題に。
たしかに、いつから倭国から日本になったのか、
はっきりしなかったよね。
第10回 出国733年 帰国734年~739年 南路
4隻の船で出国し往路は4隻無時で蘇州に到着し734年に唐朝に拝謁した。
しかし帰路、同時に出航するも東シナ海上で急に暴風が起こり各船遭難した。
- 第1船の多治比 広成は種子島に帰着(吉備 真備、玄昉、羽栗 吉麻呂と子の翼・翔ら帰国)
- 第2船の中臣 名代は唐に流し戻され735年に長安に戻り、唐の援助で船を修復し唐人・ペルシャ人らを連れて736年に帰国。
- 第3船の平群 広成は難破して崑崙国(南ベトナム)に漂着し、襲撃を受け100余名が4人となり、抑留されるが脱出。唐に滞在していた阿倍仲麻呂の仲介により、唐から海路渤海国に入り、739年渤海大使・胥要徳と共に渤海船2隻で日本海を渡るも、1隻が波にのまれて転覆し胥要徳ら40人が死亡。残った1隻は平群 広成や渤海副使の将軍己珎蒙と共に出羽国へ到着。
- 第4船は行方不明。
多治比 広成(大使)公卿・漢詩人。左大臣・多治比嶋の五男。唯一無事帰還。
中臣 名代(副使)貴族。中臣垂目の孫。
平群 広成(判官)奇跡の帰還。当時の日本人の中で最も広い世界を見たとされる。
秦 朝元(判官)官人の中でも医術に優れるとされ褒賞される。
田口 養年富、紀 馬主(判官)唐で客死。
大伴 古麻呂(留学生)残留し、754年に大乗仏典をもたらし、鑑真と共に帰国。
秦 大麻呂(請益)儒教を学び問答六巻を献上した。
栄叡、普照(僧)出家者に正式な戒を授けるための伝戒師を招請するため唐へ渡る。
まとめ
遣唐使の前半の10回をまとめます。
第2回 大使・吉士長丹ら、遣唐使初の事故で死者・行方不明100名超。
第3回 押使・高向 玄理ら、日本の位置、神話を伝える。倭国との違いが発生か。
第4回 大使・坂合部 磐鍬ら南海に没す。百済の役と謀反で副使・津守 吉祥ら2年軟禁。
第5回 皇帝・高宗即位。唐の百済占領軍・劉 仁願の部下と共に帰国。筑紫を占領・視察?
第6回 送使・伊吉 博徳ら、唐の百済占領軍・劉 仁願の部下を旧百済の地へ送る。
第7回 大使・河内 鯨ら、唐に高句麗平定の祝賀をおくる。
第8回 執節使・粟田真人ら、白村江の戦いの捕虜らと帰国。律令を学ぶ。
第9回 押使・多治比 縣守ら、阿倍 仲麻呂・吉備 真備・井 真成ら留学生・僧を唐へ送る。
第10回 大使・多治比 広成ら、帰路で遭難。平群 広成ら崑崙国に流されるが奇跡の生還。
第2、4、10回では、多数の死者が・・・。
津守 吉祥もあやうく流刑になるとこだったし、
ほんと命懸けだよね。
特に第10回の平群 広成はすごいよね。
阿部仲麻呂と渤海国の活躍で帰還。
そんな中で、阿部仲麻呂の従者・羽栗 吉麻呂が、
子供たち二人とともに帰国した話もあったね。
なにが気になったって翼と翔って名前が、
ものすごくキラキラネームだよね。
某サッカー漫画かっていう(笑)
それはともかく(笑)
倭国から日本へ変わった、もしくは統合されたのか・・・。
百済・高句麗も滅ぶ。そんな大きな変化があった時代だね。
今回は遣唐使がメインなので、
あえて僧たちの話題は触れなかったけれど、
そちらも気になるね。
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