古墳時代の記事を書いているうちに、時代をまたがった歴史を知る必要があることが判りました。
というわけで今回は古墳時代の番外編として、「古墳」だけにターゲットをしぼって、あれこれとリサーチしてみました。
古墳時代の記事があがらないと思ったら、
このへんで、はまってたわけか。
そうそう、古墳だけに
掘っても掘ってもネタが尽きないってね(笑)
わらいごとやないで―!
そうそう。あくまでも素人ですから、
間違った解釈もあるかもしれませんので、
そのへんはご容赦ください。
そもそも古墳とは?
「古墳」は、文字通り古代の墳墓で、土を盛って造った墳丘を持つ墓です。墳丘のすべてを盛土するのではなく、墳丘の一部に自然の丘を利用して造られているものもあります。大型の古墳は、多くの人手と長い時間をかけて造られました。大仙陵古墳を造るのに20年かかったといわれています。正確な設計・工事を行えたのは、大陸の技術者が設計に深くかかわっていたと考えられています。
造られた時代により区分しています。 弥生時代(3世紀)以前のものは「墳丘墓」
古墳時代~飛鳥時代(3世紀中ごろ~7世紀)のものを「古墳」
奈良時代(7世紀)以降のものは「墳墓」
古墳の歴史
弥生時代前期(紀元前4世紀ごろ)になると大陸から稲作(水稲農耕)の技術が伝わり、各地に広まります。人々の生活は狩猟・採集から定住・生産へと変化していきました。
温暖な気候とあいまって人口が増加しましたが、農地や水利をめぐって村と村の間で争いが起きるようになりました。争いのなか、いくつかの村を束ねる権力をもった有力者である首長が生まれました。彼らは「豪族」と呼ばれ、同時に身分の差(貧富の差)ができました。
豪族同士が戦い、あるいは協力しして地域を王が治める小国がたくさんできました。
その豪族や王たちの墓が大型化していったものが古墳と考えられています。
その結果、知識・技術・人・思想など、多くの分野で影響をうけるようになります。
そういった要素が反映されたものが古墳にもあらわれています。
埋葬方法の移り変わり
埋葬方法は、時代とともに変化していきます。とくに権力者たちのための埋葬方法は大きく変わっていきました。
縄文時代(~紀元前10世紀ごろ)
旧石器時代から縄文時代になると、定住をする生活になったので、埋葬をおこなう習慣が生まれました。住居の近くに穴を掘って屈葬(体育座りのような姿勢)されていました。埋葬の際には、死者の霊が離れないように、石を抱かせたり縛られていたそうです。幼児などは深鉢形や甕形土器などにいれ埋葬されました。一部の特別な人は後の時代と同じく伸展葬であったと考えられています。
弥生時代(紀元前4世紀~紀元後3世紀ごろ)
弥生時代に入ると、ムラから少し離れた場所に墓地を作るようになりました。埋める際には、成人の場合は木の棺にいれた伸展葬(体を伸ばした状態)が一般的となりました。北九州地方を中心に、甕棺(かめかん)といわれる、土器や陶器で作った棺で埋葬しました。これは大陸の文化の影響と考えられています。
墓の形としては、弥生時代前期に「方形周溝墓」(上の写真)が北九州から日本海側ルートで山陰地方に伝播し、のちに瀬戸内海周辺、近畿、中部、東海、関東へと伝わっていきました。
権力者のための墓は、方形周溝墓が先行する出雲を中心とする山陰地方と日本海沿いの北陸では、独自の進化をし「四隅突出型墳丘墓」が造られました。四隅を延長したのは祭祀を行うためで、古代中国の思想(角から悪鬼が侵入する)からという説もあります。四隅突出型墳丘墓は出雲王国の衰退とともに姿を消してしまいます。
一方、瀬戸内海周辺の海人たちのクニには、古くから円形の思想があり、方形周溝墓から「円形周溝墓」へ形が変化し、「前方後円型周溝墓」になっていきました。
古墳時代(3世紀中~7世紀ごろ)
古墳時代前期、ヤマト政権の中心となった幾内には、大王やその親族のための「前方後円墳」が造られます。権力がより大きくなるのにあわせて、とくに古墳時代中期には大王のための巨大な前方後円墳がつくられていきました。後期にはいると大王中心の政権が安定し、権力の誇示をする必要がなくなり、規模は小さくなっていきました。
首長墓としては、巨大な「円墳」などが作られました。
とくに中部地方より東の地域には「前方後方墳」が造られていきます。
飛鳥時代(6世紀末~710年世紀)
646年(大化2年)に、大化の改新の一環として、「薄葬令」がだされ、身分に応じて墳墓の規模などを制限され、小規模な円墳や方墳が主流となります。大王の陵も「方墳」に変わり、7世紀中ごろからは、中国の思想を取り入れた、「八角墳」に変わっていきます。また7世紀末には、仏教の思想により火葬が行われるようになります。持統天皇は初の火葬といわれています。
現代
近代の天皇陵は、明治天皇陵以降、上部2段・下部3段の「上円下方墳」です。
これは天智陵(御廟野古墳)・舒明陵(段ノ塚古墳)に習ったものだそうです。
古墳(と墳丘墓)のなりたち
前方後円墳
前方後円墳のなりたちは、弥生時代の円形周溝墓の陸橋部が方部に変化していったのではないかと考えられています。前方後円墳も時代とともに、方部の形状が変化していきます。
方部の形は、前期には柄鏡型、帆立貝形、撥型などがあり、後期には剣菱形に変化していきます。
前方後方墳
前方後方墳も前方後円墳と同様の経緯で変化していったと考えますが、情報が極端に少ないため推測です。
四隅突出型墳丘墓
出雲王国の衰退とともに消えた、四隅突出型墳丘墓ですが、葺石・貼石が施されるなど、独自の特徴があります。古墳時代には巨大な方墳、そして前方後方墳へと発展していったのかもしれません。
古墳大きさランキング
前方後円墳
前方後円墳は、日本に約5000基あると言われていますが、
さすがに大きいものは大王クラスの陵墓がずらりと!
岡山県の「造山古墳(ぞうざん)」と「作山古墳(さくざん)」は、陵墓に治定されていないから、一般人が立入ることができる古墳のなかでは最大だね。
大仙陵古墳は全長では、クフ王のピラミッドや、
秦の始皇帝の陵墓より大きくて世界最大級なんだそうだ~。
3つの遺跡を比較をすると、
高さでは、クフ王のピラミッドが一番高くて
体積では、秦の始皇帝の陵墓が最大ですにゃ。
前方後方墳
前方後方墳の大きさランキング1位は・・・
190mで西山古墳ですにゃ!
一応補足。西山古墳は方部の2段目から円なので、
後方墳と呼んでよいのか、ちょっと微妙。
もしかしたら、双方中方墳かもしれないし・・・。
前方後方墳だと、東日本の地域もランクイン。
政治的な意味があるんだろうけれど、
まだ、はっきりとはわからないなぁ。
正式に国造や郡司が置かれる前だから、
地域の首長クラス(豪族)の古墳なんでしょうね。
ヤマト政権との関係もあったのかな。
下池山古墳からは、幻の「倭文織の班布」で
包まれた内行花文鏡や、錫製の釧も出土。
※釧とは古代の装飾品で腕輪の一種です
埋葬されたのは、女性と考えると、
もしかしたら巫女なのかもしれないね~。
侍塚古墳にもご注目にゃ。
江戸時代に水戸光圀公の命で調査が行われたそうです。
赤松が植えられ、「日本で一番美しい古墳」と言われているにゃ。
円墳
円墳部門での大きさランキング1位は富雄丸山古墳ですにゃ。
2017年の再調査で3段だと判り、109mに変更になりました。
ちなみに墳丘径が同じな場合は、高い順に並べました。
2位になってしまった丸墓山古墳は、
石田三成が陣を敷いたといわれているよ。
墳頂に桜の木があって春は綺麗。
富士山古墳からは、
大きな家形埴輪が出土しています。
複雑な形だし、良く割れないで作れたよね(笑)
方墳
方墳部門のランキング1位は桝山古墳でしたにゃ。
ちなみに長辺が長い順となっています。
長辺が同じ場合は、短辺が長い順ですにゃ。
惜しくもランク外となってしまいましたが、
島根県の大成古墳、造山古墳などには1辺60mの方墳があります。
古代出雲王陵の丘として整備されているので、
眺めも良いらしいよ。
龍角寺岩屋古墳からは、水鳥形埴輪が出土か・・・。
なんか埴輪って人や馬以外にも色々あるんだの。
動物の埴輪も色々種類があるみたい。
牛、鹿、猪、犬、鶏、兎などなど。
現代と一緒で馴染みのある動物が多いね~。
八角墳
由緒正しい八角墳の大きさランキング1位は御廟野古墳でした!
現代の天皇陵のモデルとなったそうですにゃ。
一応補足しておくと、
御廟野古墳は、厳密には下八角・上円墳ですね。
情報少なすぎて、順位はあまり自信ないな~。
データが対辺長・対角長・径だったり一辺だったり。
もーたいへん(対辺)でした!
まとめ
古墳について、あれこれリサーチみました。
まだたくさんの視点があるのですが、掘っても掘ってもきりがないようなので、今回はこの辺で。
まずは近くの関東の古墳に行ってみたいですね。
埴輪についても、色々調べてみたいと思います。
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