古墳時代とは、弥生時代の終わり3世紀末から、飛鳥時代の始まる6世紀中ごろさします。
文化的な意味合いでは前後の時代とは重なる部分も多く、政権としては飛鳥時代まで続いていますので、古墳時代と飛鳥時代を合わせてヤマト時代という区分もできます。
この時代は、当時の様子を記した書物は国内には残っておらず、また中国の文献にも記述がない空白の時代となっています。ヒントとして残っているのは、全国に数多く残る古墳、纏向遺跡にのこる大規模な都の痕跡、後の時代に編纂された「古事記」と「日本書紀」です。
5世紀末から6世紀ごろには、岩手県から鹿児島までの、ほぼ全国を支配地域とした。
当時の日本は、倭(わ・やまと)・倭国(わこく)、そこに住む人々は倭人と呼ばれていた。
空白の時代
空白の時代とは
魏志倭人伝(『三国志』魏書東夷傳の倭人之条)によれば、邪馬台国の女王「卑弥呼」が247年に使者を送ったとあります。また、晋書(武帝紀、四夷伝)には、266年に、卑弥呼の後継者「臺與(イヨ)」が晋(魏から晋に変わっている)に朝貢をしたと記されています。この記録の最後に413年まで、約150年の空白の時代があるのです。
大陸の戦乱
当時の中国も戦乱の時代でした。三国時代末期、263年蜀が滅亡。265年に魏から晋(西晋)へと変わり、280年呉が滅亡し三国時代は終焉を迎えます。しかし晋による平定もつかのまで、316年には西晋が滅亡し、翌年に東晋として再興。南北朝時代、五胡十六国時代となります。隋が統一を果たしたのは、200年以上もあとの581年です。
渡来人が同化
大陸の戦乱は、古墳時代よりも古くから続いています。大きな戦乱が起きるたびに、新天地の倭国へ移り住む渡来人も増えました。このことは、この時代の倭国の政権への影響も多大にあったと考えられます。農耕や鉄の製造技術、戦いの方法などの伝来にともない、多数の渡来人が倭国へと溶け込んでいったのです。
いまも残る多くの古墳
古墳とは
古墳といえば、鍵穴型の墳丘をもつ大型の前方後円墳が有名です。写真の大仙陵古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」が、世界文化遺産に登録され話題になりました。
古墳は、大王もしくは有力豪族の血族の墓です。墳丘をつくって埋葬を行うことは、前時代から変化はないのですが、大きな違いは特定少数のためで、権威の象徴や世代交代を含めた政治的な意味合いもあったと考えられています。
現代の技術で調査を行ったら、
年代が合わないといったこともありえるよね?
もちろんそれはわかっているんだけれど、
規模・土地・年代からあの人物と比定するんだね。
真の〇○陵とか、これは卑弥呼かもとか。
ロマンがありますの~
古墳の形状について
古墳には、たくさんの形状があります。大型の前方後円墳に注目がしてしまいがちですが、古墳のうち9割が円墳といわれています。大小合わせると日本全国に16万基以上あるそうです。
形としては、基本形の円墳・方墳(長方形墳)、六角墳、八角墳。
円墳と方墳を組み合わせた、前方後円墳と方部の規模の違いで、柄鏡式と帆立貝式、双方中円古墳。
方墳を組み合わせた、前方後方墳・四隅突出墳、双方墳、双方中方墳。
また、少数ながら双円墳や、方墳の上に円墳や八角形を組み合わせたもの。多くの横穴をあけた横穴古墳もみつかっています。
とくに規模の違いは、葬られた人物の身分に影響されています。
前方後円墳は7世紀(飛鳥時代)になると作られなくなります。
大小の古墳をあわせると、約16万基!
全国にたくさんあるよね。
コンビニの3倍くらいあるんだって。
そんなある感じしないけどね~(笑)
ちなみに北海道・青森県・秋田県・沖縄県にはないんだって。
つまりヤマト政権の影響外だったってことかな?
そういうことになるね~
ほんとうはこわい埴輪の話
今では考えられませんが、魏志倭人伝には、こんな話があります。邪馬台国の女王卑弥呼の葬儀の際には約100人の奴隷が殉葬されたと。主人が亡くなったときには、その奴隷も殉葬を行う風習があったそうです(死後も主人に仕えなさいということでしょうか・・・)
しかし、垂仁天皇が、亡くなった最初の皇后「狭穂姫命」の葬儀を行うときに、殉葬は悪習だと嘆いていました。そこで野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言し、それからは殉葬の風習はなくなったそうです。古墳から副葬品として大量の埴輪がみつかるのは、こういった意味合いがあるのですね。
ヤマト政権の謎
ヤマト政権の成立
ヤマト政権の原型は、邪馬台国である可能性が考えられていますが、はっきりとはわかっていません。魏志倭人伝にも、使者が往来している三十国あったとの記載があり、小国が乱立し混乱をしていたと考えられます。倭国の「王(きみ)」や「大王(おおきみ)」などの首長を中心として有力な氏族が連合した政権と考えられています。
現在の教科書では、ヤマト朝廷とは、呼ばなくなりました。
なぜなら、飛鳥時代になると、天皇を中心とした中央集権国家となるのですが、古墳時代の大王は各地に数多くいる「王の中の王」といった立場だったと考えられます。朝廷という言葉は、天皇中心の政治を意味するので、現在は「ヤマト政権」もしくは「ヤマト王権」と呼ぶようになったそうです。
磐井の乱(いわいのらん)
日本書紀には、527年に朝鮮半島南部へ出兵しようとしたヤマト政権軍にたいして、筑紫(福岡県)の豪族磐井が新羅と手を結び反乱をおこし、翌528年に物部麁鹿火によって鎮圧されたとある。これを「磐井の乱」といいます。
同じように、他の地域でも豪族とヤマト政権の争いが起きていて、徐々に全国へ支配が増していったと考えられています。
三国時代の朝鮮半島
4世紀半ばの朝鮮半島は、百済・新羅・高句麗の三国分立の時代を迎えます。
半島最南端には伽耶と呼ばれた連合国家があり、ヤマト政権は伽耶と積極的に交流をしていました。
このことから、倭国は朝鮮半島への進出をしていたと考えられます。
高麗時代の『三国史記』および『三国遺事』より
仏教は528年新羅の国教となった。
新羅は唐と結んで660年に百済を668年に高句麗を滅ぼした。
これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまった。
滅ぼされた百済と高句麗の王族は日本にのがれた。
百済の王族は百済王の姓を賜った。百済王氏からは陸奥国で金を発見した百済王敬福などが出た。
高句麗の王族は高麗王の姓を賜った。高麗王氏は埼玉日高市一帯を開拓、日本に先進文化を伝えた。
日本における「古事記」・「日本書紀」と同様に、全てを信じるかどうかは別として、歴史の一端を物語るものが含まれていると思います。先進文化をもった朝鮮半島からの渡来人が豪族となり、やがてヤマト政権にも影響を与えた可能性は高いと思います。
まとめ
空白の時代と呼ばれる古墳時代のごく一部をご紹介いたしました。
倭国といわれた日本では、大王と有力豪族たちの連合「ヤマト政権」がつくられていきました。
この1500年以上前に造られた、巨大な古墳がいま世界の注目を集めています。
この時代近隣も、戦乱の続く中国大陸と朝鮮半島の二つの三国時代でもありました。豪族を従え支配力を増していったヤマト政権ですが、倭国内も戦乱の時代であったと考えられます。
ヤマト政権の、はじまりについては多くの謎が残っています。
この記事を書くにあたって、謎についての何冊かの文献を読みましたが、はっきりとした答えは出ないというのが実感です。古墳時代は、ものすごく奥が深い!!
前方後円墳が秘密の鍵穴にみえて仕方ないです(笑)
機会があれば、古墳についての記事や大王や親族について、天孫降臨などの神話についての記事を書こうと思います。
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