平和が続くようにと名付けられた都、それが平安京です。平安京は風水の思想に従って、土地から選び抜かれた都です。四神相応の土地という事で、東・青龍=水、西・白虎=道、南・朱雀=湖、北・玄武=山。
これを土地にあるものに例えると東に鴨川、西に山陰道、南に巨椋池、北に船岡山になります。
そして、貴族たちが恐れた怨霊を祓うため仏教・陰陽道が盛んになりました。
平安京の場所
現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。(出典 Wikipedia)
平安京は唐の長安をモデルにして東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画されました。
長岡京から平安京への遷都
始まりは桓武天皇により長岡京よりの遷都にはじまります、長岡京から脱出したかったからにほかありません。
理由としては造営を任されていた藤原種継が暗殺されたのがきっかけである。桓武天皇が大和に出かけて留守の間に大伴竹良らに造営監督中に矢で撃たれ翌日死亡した。
首謀者は大伴継人ら数十名にのぼり処刑されました。これだけなら遷都はなかったのでしょうが、桓武天皇の弟、早良親王にも疑いをかけ配流しました。早良親王は無実を訴えてるなか憤死してしまいます。
その後天皇の夫人や生母、皇后たちが相次いで死去。さらに疫病やら洪水やらなどの自然災害も続けざまにおき、これを親王の祟りとして怯えた天皇は長岡京を嫌い794年に平安京に遷都することになりました。
平安宮
都の北部に天皇の住まいになる大内裏があります。
大内裏には御所として内裏、即位礼などを執り行う八省院、饗宴が行われた豊楽院、神事を行う中和院や仏事に関わる真言院などがあります。
現在は当時の面影もなくなり。京都御所が天皇のお住まいになり、明治以降は東京に皇居を設けています。
この場所が選ばれた理由
琵琶湖がちかく北陸や東国と水運でつながることが出来る利点ということや、秦氏の地盤なので協力が得られるという理由が考えられていますが、一押しの理由としては中国の風水思想で都に適してるとされる四神相応の地という事であります。
四神相応ってなんだろう?4つの神様の事?
平安京は四角いでしょ?その東西南北にふさわしい神が宿るとする地形って事だよ~。
東西南北に神様なんているんだ?
東・青龍、西・白虎、南・朱雀、北・玄武って言って
ね架空の動物が守ってくれてるのよ~。
これが先に話した通り東に鴨川、西に山陰道、南に巨椋池、北に船岡山となります。現在南の巨椋池は存在しません。風水の力により都を守ろうっていう発想ですね。
宗教が盛んになる
さきに触れたとおり、怨霊を嫌い遷都したいきさつもあるので、この時代の人たちは篤く宗教を信仰しておりました。
平安初期に盛んになるのが、最澄・空海の仏教です。
天台宗
開祖は最澄(806年)
場所は比叡山延暦寺です(お正月によくTVで見られますよね)
経典は法華経
教義は仏の前では人類皆平等
真言宗
開祖は空海
場所は高野山金剛峰寺
経典は大日経など
教義は加持祈禱で現世で利益を得る
怨霊を鎮める陰陽師
陰陽師とはTVや映画などではスーパーカッコいい人に書かれてますが、実際のところは卜占をする人なんですねぇ。そのほかには暦を作ったり、時間の管理をしたりという今の気象予報士プラス占い師のような職業でした。
が、先に紹介した通り「平安京遷都」は怨霊を鎮めるために作られた町なので、ちゃんと内裏のなかに「陰陽省」という機関がちゃんとあり、空海や最澄と違いちゃんとしたお役人様ったということです。
陰陽師と言えば、安倍晴明ですが、ほかにもちゃんと陰陽師はいました。省の中には6人いたという事です。
仏教、そして陰陽道を通して、病気や呪いを本当に払えると当時の方々は信じていたので大いに流行したという事だそうです。
まとめ
平安京は、怨霊を鎮めるために遷都してきた都である。
そこで流行したのが、仏教、陰陽道、四神相応の風水という事になり。
特に有名な仏教が、真言宗、天台宗。
そして陰陽道という事になります。
真言宗は、加持祈禱などを行いますので見た目的には陰陽師みたいなことをしますが、ちょっと違ってますね。式神は使いませんから(笑)
天台宗は仏の前ではみな平等と説いて人気になりましたが、現世利益はないも同じだと思うのはベルだけでしょうか?私なら真言宗に行ってしまいそう。修業は大変そうですが・・・。ベルのうちも実は真言宗だったりします。現在の住職様も独鈷もってお経をあげていただいてます。
最後に陰陽道なんですが、さらっと流したのは次回「陰陽道」を詳しく取り上げようかと思ったからです。気象・天文学・占いまでこなす人々の生活をちょっと詳しくとりあげようとおもいます。それではこの辺で。
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