邪馬台国はどこにあったのか
この議論は今も続いていて「ここ!」とは断言されていません。
有力な説としては畿内説と九州説があります。どちらの説にも根拠があります。
皆さんはどっちにあったらいいなぁ?って思いますか?
今回は、邪馬台国があったとされる二つの説と、クニを束ねていた女王卑弥呼のお話をしたいと思います。
巫女が活躍する
農耕生活が始まってからは、人々の自然に対する価値観が変わってきて、それが宗教観にも影響してくることにつながります。何故なら農耕生活は天候・自然災害などに左右されるため自然にたいする信仰が強くなってきたからです。
自然が神様って事なのね。当時は「山」も神様だったんだよ
山を拝んでたの?
今でも奈良などには拝殿が無い。もしくは奥の院と言って山や岩を神様として祭ってるところが多いんだよ~
岩や山を信仰するにあたって、神の声を聴く「巫女」シャーマンが活躍する時代になってくるのです。以前に弥生時代の生活文化の記事を書きましたが、農耕をすることにより定住化が進み、村ができ、小さな国が出来上がってきます。
邪馬台国はそんな国の一つで、女王卑弥呼が治めた国です。彼女は巫女であり、自ら卜占を行いました。カメの甲羅を火であぶり、出来た亀裂から今後の事を占ったという事です。
自然を相手にしていたので、丁度卑弥呼が治めていた時代に日食があり、古代の人たちはこの世の滅亡と思ったとか思わなかったとか、この日食を卑弥呼のせいとして卑弥呼は女王の座を追われたそうです。
中国の魏志倭人伝
小さい国が乱立するなかには、中国の王朝へ貢物を贈るものもいました。三国時代の魏志倭人伝に2~3世紀の日本の様子を書いてる中に「女王卑弥呼」という記載がありこれが邪馬台国であることがわかりました。
邪馬台国論争はいまだに続いており、どこにあるかはまだ確定されてませんが、この邪馬台国の女王卑弥呼が「占い」「神の声を聴くもの」としてシャーマンとして活躍したことが中国の書にかいてあるのです。
卑弥呼が死んだときには、大きな塚を緒に埋葬作って奴婢も一したそうです。ってことは古墳が近くにあるってことになるんでしょうか?
奴婢とは律令制における身分階級の一つであり、良民(自由民)と賤民(非自由民)がある中の後者に相当する。奴(ぬ/やつこ, ローマ字表記: Nu / Yakko)は男性、婢(ひ/みやつこ, ローマ字表記: Hi / Miyakko)は女性を意味する。(出典 ウィキペディアより)
邪馬台国畿内説
奈良の纏向遺跡が発掘したことにより、今はこちらが有力視されてるのかな?って思っておりますがどうなんでしょう?
遺跡が大きすぎていまだに全容が解明されてませんが、出土した遺跡が3世紀とされているのでここもありってことですね。近くに箸墓もありますし、年代もぴったりですね。
まだまだ、発掘途中なので何が出てくるか非常に
楽しみなベルなのでした(笑)
邪馬台国九州説
佐賀県の吉野ケ里遺跡がそうではないかと言われて久しいのですが、この遺跡は卑弥呼の時代より古く1~2世紀の遺跡だったりするんですが、その当時から連綿と続いていたとしたらもしかしたら?っておもいませんか?
ベルは纏向遺跡が出た時は「こっちか!」と思いましたが、九州説の方が好きなんですよねぇ。好き嫌いで歴史はできませんが自分の思いはこっちって思いが、小学生の時からありました。
吉野ケ里遺跡が出た時は「やっぱりー」って小躍りした位うれしかったですが、成長するにつれ、年代やら出土品の事が分かった来ると「う~~む」と唸ってしまったのを覚えてます。
九州にはまだまだ未知の遺跡があることを祈ってます。
まとめ
邪馬台国はどこにあり、卑弥呼はどこにいたのかはいまだに分かってません。個人的には箸墓古墳がある纏向遺跡だと思いたいんですが、箸墓の埋葬者が一応は比定されてるんですよね。
倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)という、舌を噛みそうな名前の姫なんですが、大物主神(おおものぬしのかみ)の妻とされてる人なんですよー。
これが卑弥呼ならいいなぁとかは思いますが、大物主神の奥さんが卑弥呼だとはどこにも書いてませんので妄想全開にでもならないとこじつけることが出来ません(笑)
実は筆者は箸墓古墳にはるか昔に行ったことがあります。今とは多分違うとおもわれますが、当時は普通の民家と田畑の中にぽつーんとあったんですよ~。
という事で、まとめとして、九州説なら吉野ケ里遺跡、畿内説なら纏向遺跡という事になります。発掘の事実だけみたら纏向遺跡の方がリードしてるんじゃないかなっておもいます。それではこの辺で。
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