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写真:国宝 弥勒菩薩半跏像(如意輪観音)奈良県中宮寺。厩戸王が母・穴穂部間人皇女の宮殿を寺としたとも、間人皇后自身が発願者であるとも伝えられる。半跏思惟の像は、中宮寺本尊で「世界の三つの微笑像」とも。出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
【人名】
穴穂部間人皇女
(あなほべのはしひとのひめみこ)
飛鳥時代の皇族。異母兄・用明天皇の皇后。
聖徳太子の生母として知られる。
欽明天皇の第三皇女。母は蘇我稲目の娘・小姉君。同母弟に穴穂部皇子・崇峻天皇がいる。
用明天皇崩御後は、用明天皇の第一皇子・田目皇子に嫁し佐富女王を産んだとする【聖】
「穴穂部」の名は、石上穴穂宮で養育されたことに由来すると考えられている。
名 前
全名:穴穂部間人皇女(あなほべ の はしひと の ひめみこ)【紀】
諱 :穴穂部間人
別称:泥部穴穗部皇女【紀】
:間人穴太部王【記】
:穴穂部間人王、穴太部間人王、孔部間人公主・母王、鬼前大后【聖】他多数
諱 :穴穂部間人
別称:泥部穴穗部皇女【紀】
:間人穴太部王【記】
:穴穂部間人王、穴太部間人王、孔部間人公主・母王、鬼前大后【聖】他多数
生没年
生 年:不明
没 年:622年2月7日(推古29年12月21日)
没 年:622年2月7日(推古29年12月21日)
親 族
父 :欽明天皇
母 :蘇我小姉君
母 :蘇我小姉君
配偶者:用明天皇(父:欽明天皇、母:蘇我堅塩媛、異母兄)
:田目皇子(父:用明天皇、母:蘇我石寸名、異母子)【聖】
:田目皇子(父:用明天皇、母:蘇我石寸名、異母子)【聖】
子女:厩戸皇子/聖徳太子(父:用明天皇)
:来目皇子
:殖栗皇子
:茨田皇子
:来目皇子
:殖栗皇子
:茨田皇子
:佐富女王(父:田目皇子)【聖】
兄弟姉妹:箭田珠勝大兄皇子(母:石姫皇女)
:訳語田渟中倉太珠敷尊(母:石姫皇女、敏達天皇)
:笠縫皇女(母:石姫皇女)
:訳語田渟中倉太珠敷尊(母:石姫皇女、敏達天皇)
:笠縫皇女(母:石姫皇女)
:上王・ 石上皇子(母:小石比売命)【記】
:倉皇子(母:日影皇女)【記】
:橘豊日尊(母:堅塩媛、用明天皇)
:磐隈皇女(母:堅塩媛)
:臘嘴鳥皇子(母:堅塩媛)
:豊御食炊屋姫尊・額田部皇女(母:堅塩媛、推古天皇)
:椀子皇子(母:堅塩媛)
:大宅皇女(母:堅塩媛)
:石上部皇子(母:堅塩媛)
:山背皇子(母:堅塩媛)
:大伴皇女(母:堅塩媛)
:桜井皇子(母:堅塩媛)
:肩野皇女(母:堅塩媛)
:橘本稚皇子(母:堅塩媛)
:舎人皇女(母:堅塩媛)
:茨城皇子(母:小姉君)
:葛城皇子(母:小姉君)
:泥部穴穂部皇子(母: 小姉君)
:泊瀬部皇子(母:小姉君、崇峻天皇)
:春日山田皇女(母:糠子)
:橘麻呂皇子(母:糠子)
略 歴
生年不明。父は欽明天皇、母は小姉君の皇女。
586年 用明天皇の皇后となる。
587年4月9日 用明天皇が崩じる。
622年2月7日(推古天皇29年12月21日)日の入りに崩じる。
622年4月8日(推古天皇30年2月22日)夜半に太子が崩じる。
聖徳太子の母・穴穂部間人皇女が亡くなり、翌年には太子自身も亡くなった。
これを悲しみ嘆いた太子の妃・橘大郎女は、推古天皇(おば)に
「我が大王は天寿国の中に生まれるべきと思うのです。願わくば図像によって往生の様子を見たい」と。
これを聞いた推古天皇はもっともと感じ、采女らに命じて天寿国繍帳を作らせた。
これを悲しみ嘆いた太子の妃・橘大郎女は、推古天皇(おば)に
「我が大王は天寿国の中に生まれるべきと思うのです。願わくば図像によって往生の様子を見たい」と。
これを聞いた推古天皇はもっともと感じ、采女らに命じて天寿国繍帳を作らせた。
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