釈迦が仏教のインドのブッダガヤで悟りを得たといわれているのが、紀元前450年ごろ。
それから約1000年の時をかけて遠く東方の国、日本に仏教が伝わりました。
当時の日本は、まだ飛鳥時代の初期。
ヤマト政権は、大王と豪族の連合政権で、まだ政治的に不安定でした。
一方、朝鮮半島でも三国での争いが続き、緊迫した情勢でした。
そんな時代に、日本の歴史にも大きな影響を与える最先端の思想「仏教」が伝来します。
・朝鮮半島南西部の「百済」は、北方の大国「高句麗」からの軍事圧力によって苦境に陥っていた。そこで倭国に援軍の見返りの一つとして、最先端文化「仏教」を伝えた。
・ヤマト政権で影響力のある「蘇我氏」は、百済からの渡来系氏族で仏教徒の「東漢氏」と密接な関係。その後、保守派「物部氏」と対立。蘇我氏が勝利し仏教思想は政治にも取り入れられていった。
仏教伝来538年なんて語呂合わせもあるねー。
あったあった(笑)
でも、前から思ってたんだけど、御参拝だと神社のイメージがっ!
いやいや、お寺でも御参拝って言うよ~。
っていうか、突っ込みそこなんだ(笑)
仏教の歴史
仏教の起こり 初期仏教の時代 紀元前450年ごろ
仏教の起こりは紀元前450年頃といわれています(諸説あります)
現在のネパールにあるルンビニという小さな村で、シャーキヤ族(釈迦族)の王子として、
釈迦(ガウタマ=シッダールタ)が生まれました。実母は出産のあとに亡くなり、母の妹に育てられたそうです。
16歳のとき釈迦は結婚をして子供をもうけます。王子として、教育を受け、不自由なく成長しましたが、29歳のときに人として避けることのできない「生・老・病・死」の四苦について考える出来事があり、その真理を求めて出家します。
釈迦は、3人の師の元で教えを受けましたが、師の教えでは、人の煩悩を救ったり真の悟りを得られないと師の元から去ります。それから、6年間は5人の修行僧とともに、バラモン教の影響で6年間激しい苦行修行や瞑想を行いました。
35歳のとき、過度の断食でやせ細った釈迦は、村娘のスジャータの施しを得たのをきっかけに、王子の身分での生活など過度な快楽や、逆に極端な苦行も不適切であり、心が穏やかな「中道」こそが真実であると悟り苦行をやめます(苦行放棄)この後、インド北部ガンジス川支流の畔にある、ブッダガヤの菩提樹の元で悟りを開きました。その教えを広めたのがはじまりです。
釈迦は、バラモン教のカースト制度(身分制度)と、その教えを批判しました。
弟子たちに、人の苦しみとその原因を説き、正しい道を行って迷いを無くし、悟りを開くことで、身分によらず救われると口伝していきました。
根本分裂と枝末分裂 部派仏教の時代 紀元前250年~紀元前後
釈迦の死後すぐに、口伝で聞いた教えを集める作業を行いました。これを「三蔵の結集」(第一回)といい、集められた教えは「仏典」として口承され、後の時代に編纂されました。
それから100年ほど経つと、釈迦の教えの解釈に差がでてくるようになります。再び三蔵の結集(第二回)を行い再検討しましたが、解釈の違いから弟子たちは、次第に上座部と大衆部の二派に分裂していきました(これを根本分裂といいます)
二つの派の違いは、戒律を緩和するための、十事の例外についての解釈と言われています。
金銀(金銭)の布施を認めない厳格な考え方で、少人数でしたが、長老上座が多かったので、上座部と名付けました。一方、金銀の布施を認める派は、多人数だったので、大衆部と名付けたそうです(二派に分かれた原因は諸説あります)
二派に大きく分かれた部派は、さらに多くの部派に分かれていきました(これを枝末分裂といいます)こうした部派ごとに教義の違いが生まれた時代の仏教を部派仏教と呼びます。
最終的に部派は20にも分かれたといわれ、僧たちは各派の僧院で学問的な仏教に没頭したことで、実践的な仏教から離れていきました。
釈迦の死んだ日のことを「仏滅」や「入滅」といいます。
カレンダーに書いてある、仏滅はそこからなのかな?
・・・と思うよね。
でも六曜(六輝)の仏滅は、関係ないんだな~。
もとは「物滅」だったものに仏を当てはめたそうな。
物を無くす日って意味なら、毎日かも!?(笑)
ちゃんと整理整頓しなさい!(笑)
古代インドの帝国 マウリア朝
紀元前4世紀末に、古代インドのほぼ全域を、統一王朝「マウリア朝」が支配していました。
三代目の王「アショーカ王」は、釈迦が去ってから約100年後の紀元前268年に即位しました。
兄弟と争って即位し、戦争でも多くの犠牲をだしましたが、それを後悔し仏教に帰依するようになってからは、別人のように善政を行いました。
アショーカ王は、「ダルマ(法)」に基づく政治を宣言し、国内に道路を通し、井戸を掘り、病院や薬草園を造るなど民衆の生活の安定はかりました。仏教(それ以外の宗教も)を手厚く保護しました。
これが大きな要因となり、仏教の急速な広がり、「南伝・北伝仏教」がおこります。
あの目玉を書く高崎名物とかの「だるま」!?
だるまの起源は仏教禅宗の達磨大師からみたいだよ。
要は座禅をしている姿だね。
な~るほどっ。
いやぁなんか姫だるまを思い出しちゃって。
姫だるまの政治ってどんなんよ!!(笑)
アショーカ王の言ったダルマは、法(仏法)
法律以外にも、道徳、倫理、正しさ、真理を表す考え方だよ。
二つの仏教の広がり
南伝仏教の広がり 紀元前3世紀
紀元前3世紀ごろに、多くに分かれた部派のうち、主流派であった上座部の一部は、スリランカに伝えられ、そこから東南アジアの国々に広がっていきます。厳格に戒律を守り、出家を前提とした伝統を継承した保守派の上座部仏教(南伝仏教)として、東南アジアの各地へ伝播していきます。
北伝仏教のはじまり 紀元前後
紀元前後にインド北西部では、出家し悟りを開くことを目的とするよりも、多くの民衆の救済(衆生救済)を目指す新しい仏教が生まれました。出家をせずに信仰することができ、悟りを開いていなくても仏道に励む姿を重んじる考え方です。大きな(偉大な)乗り物を意味する、大乗仏教と呼ばれました。
1世紀ごろになると、大乗仏教は、中央アジアから北インドを支配していた「クシャーナ朝」で信仰されるようになります(北伝仏教のはじまり)
クシャーナ朝の統治する地域は、古くにアレキサンドロス大王の遠征による侵略を受けていたため、仏教とヘレニズム文化(古代ギリシア・ローマ文化)が融合し、ガンダーラやバーミヤンなどで、仏教的遺跡や多くの彫刻、仏像を造り上げました。
ヘレニズム文化の影響でガンダーラの仏像はどこか西洋風。
イケメン仏陀だの~。東洋の像と違って小顔だね。
北伝仏教の広がりと変化
2~3世紀ごろ、クシャーナ朝で信仰された仏教は、交易とともにシルクロードを通って中国に伝わっていきます(シルクロード伝播)交易品として商人たちから仏像も持ち込まれ、民衆の間にも仏教が徐々に浸透していきました。
桓帝の時代(在位146~168年)になると、仏教者が、洛陽を中心に仏典の漢文への翻訳が行われ、多くの仏寺が作られていきました。3世紀ごろになると、江南地域でも仏典の漢文訳が始まり、出家者も増えてくるなど、仏教が広まっていきました。
また、仏教が皇帝の保護を受けるために、仏教には国家を守護・安定させる力があるとする思想「鎮護国家」的思想も帯びるようになりました。
朝鮮半島への伝播
三国に分かれていた朝鮮半島においては、それぞれの国に仏教が伝わったとされます。
中国に近かった北方の高句麗へは372年に伝えられたとされます。
ヤマト朝廷と盟友関係の百済には384年に伝えられ、6世紀初頭になると本格的に普及しました。
高句麗から伝えられた仏教は、少し遅れて新羅では528年、王から公認されます。
日本への仏教伝来
渡来人の渡来と帰化 私的な仏教伝来
古くは弥生時代のころから日本には、朝鮮半島や中国から多くの渡来人が頻繁に渡来してきていました。帰化した人々は、定住にあたり氏族として集合しているので、氏族内の私的な信仰として仏教を信奉する者もいたと考えられています。そういった意味では、仏教は民衆のレベルでは早くから伝来していたのです。これにたいして国家間で公的に仏教を伝えられたのは538年説が有力です。これを私的な伝来と分ける意味で、仏教公伝と呼ぶようになってきました。
仏教公伝の時代背景
502年、中国南朝梁の初代皇帝「武帝」が即位。仏教教団に対しては寛容で、自身も仏教への関心が強く、自らが建立した寺に莫大な財物を与えた。(ただし、財政が逼迫したため、民衆に対し情け容赦なく税金などを取り立てたという逸話もあります)武帝の信仰は、数々の仏典に対する注釈書を著し、仏教の戒律に従った生活をしたという。皇帝菩薩とも称された。
528年、百済の「聖王(聖明王)」は、中国南朝梁の「武帝」に冊封(君臣関係を結ぶ)されました。中国南朝、百済、新羅、倭国が手を組み、高句麗に対抗しようと考えたのです。しかし、翌年529年の高句麗の安臧王との戦いに敗れ苦戦が続きました。538年には都を南に移すなど危機的状態でした。
最先端の思想「仏教」を伝えた理由は、援軍の必要なほど危機的状況であったこと。あとは、文化交流を深める意味もありましたが、仏教に心酔していた武帝の歓心を買う目的もあったと考えられています。もちろん日本も南朝梁との関係が悪くなるのは危険と考えたでしょう。
仏教伝来当時の扱い
仏教が伝来した直後は、今まで通り、神道の神を信仰すべきだとする保守派の「物部氏・中臣氏」と、これからは仏教を信仰すべきだとする革新派の「蘇我氏」との間で激しい争いおきました。
神道(古神道)の神は「国津神」、仏教の仏は「蕃神(蛮神)・仏神」として扱われ、仏教における「如来・菩薩・明王」などの仏も、神と同列の存在とされました。
蘇我氏も神事を軽視していたわけでは無いという説もでてきてます。
じゃあ、結局は仏教の受容で争ったのではなく、
朝廷内の勢力争いだったってこと!?
あと、公的に国として「国家祭祀」とするかどうかでの、
意見の相違だったのかもしれないね。
日本での仏教の広がり
仏教をめぐる蘇我氏と物部氏の対立は、子の蘇我馬子・物部守屋に持ち越される。馬子は渡来人の支援も受け、仏教受容の度を深めた。
敏達天皇の末年に疫病が流行し(馬子自体も罹患)、物部守屋・中臣勝海らはこれを蘇我氏による仏教崇拝が原因として、大規模な廃仏毀釈を実施した。
用明天皇は仏教に対する関心が深く、死の床に臨んで正式に帰依を表明します。
それは、仏教には自身の病気に対する答えがあったから考えられます。
まさに、釈迦が出家した際に真理を求めた、人として逃れることのできない「四苦」です。
その後、蘇我馬子が、武力をもって物部守屋を滅亡させ、蘇我氏が支援した推古天皇が即位します。仏教への抵抗勢力がなくなり、飛鳥寺、四天王寺、法隆寺などが造られ、厩戸王(聖徳太子)は馬子と協力し、仏教的道徳観に基づいた政治を行っていきました。
まだ、この時代に仏教を信奉したのは、朝廷を支える皇族・豪族の一部だけでした。
庶民段階にまで仏教が普及するのは、ずっと後の時代になります。
神仏習合により、神道と仏教が融合し日本独自の信仰として発展していきます。
まとめ
仏教伝来は、ちょっと難しい内容だったのですが、お読みいただきありがとうございました。
最後にちょっと仏教伝来の歴史を振り返ってみましょう。
・釈迦が菩提樹の下で悟った仏教。町娘の施しをきっかけに中道のヒントを得ました。
・仏滅後は、アショーカ王の保護のもと、多くの僧によって、釈迦の教えは体系化されました。
・クシャーナ朝でのヘレニズム文化との融合、遺跡・仏像の文化的な価値が向上。大乗仏教の成立。
・北伝仏教は、シルクロードから中国へ広がり、道教・儒教との融合、鎮護国家的な思想の付与。
・南朝梁の仏教への傾倒と、朝鮮半島での百済の苦境。ヤマト政権との関係。
・病の床に伏した用明天皇、崇仏派の蘇我氏と推古天皇、厩戸王の仏教的思想を取り入れた政治。
遠く日本まで仏教伝来した理由は、こういった数々の歴史的背景が重なったのも事実ですが、もちろんですが、現代まで広く受け入れられたのは仏教の思想が共感を得たからと思いました。
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